フェラーリ ホーン。 フェラーリ

フェラーリ

フェラーリ ホーン

ちょっとした収入が出来たので、今回エアホーンを購入しようと思っています。 現在品定めをしていますが、ボッシュのエアーマジェスティックかフィアムのフェラーリホーンかで迷っています。 仮にフェラーリホーンを取り付ける場合、車両の両端(バンパー内)に取り付けようと思っていますが、フェラーリホーンの付属品を見るとエアホースが短く取り付けが出来ないようです。 そこで質問なのですが、このエアホースをコンプレッサ用のホースなどで長く(延長)した場合に、音に変化があるのでしょうか? また、コンプレッサからの配管の長短(場所が場所なので)でも音質に変化があるのでしょうか? 電磁ホーンは今までいろいろと試してきたのですが、エアホーンは初めてなので宜しくお願いします。 amon. 基本的には 黒は適当にアースです。 青は純正ホーン配線の+です。 赤はバッテリーからの直電 黄は、社外ホーン+です。 amon. php? 外側のどちらかをリレーの青に もう片方は純正ホーンのプラスに接続です。 ここまで書いといてナンですが・・・ 違法です。 ヤンキーホーン自体が違法品だと思います。 警音器として、 スイッチを押したらすぐに鳴る。 スイッチを話したらすぐに切れる。 音色が変化しない。 と言うのがあります。 音圧以外にはね。 スイッチで切り替えても、スイッチで切り替えることも違反です。 陸自次第、検査員次第ですが、「モノ」があれば動作させるように指示されます。 使えない状態は整備不良として跳ねられます。 使ってはいけない機器が着いていれば、当然跳ねられます。 やるやらないは自由ですけど、そこら辺は理解した上で考えてください。 amon. 基本的には 黒は適当にアースです。 青は純正ホーン配線の+です。 赤はバッテリーからの直電 黄は、社外ホーン+です。 amon. php? 外側のどちらかをリレーの青に もう片方は純正ホーンのプラスに接続です。 ここまで書いといてナンですが・・・ 違法です。 ヤンキーホーン自体が違法... Q ミツバ製ホーンハーネス(レスポンス補正回路付)をつかってFIAMMフェラーリホーンを付けたのですがかなり気まぐれです、チョン押し失敗するとしばらく鳴らなくなったりします それと装着直後はいつでも鳴らせたのにいまはエンジン回してないと鳴りません、リレーからカチカチ音はします。 念のためホーンに注油したりもしましたが、改善しません ホーンが悪いのかと思いエアーマジェスティックの偽物みたいのを安く買って取り付けたりしてみましたが、同じく気まぐれでした、改善方法についてアドバイスいただけたら助かります。 それより、肝心なのは、コンプレッサーが回っているかです。 >エンジン回してないと鳴りません 鳴る、鳴らないだけでは、まるで小学生並みです、これもコンプレッサーが回っているのか、また回り具合の違いがどうなのかが必要です。 ホーン内部、音を発生する部分の腐食等でうまく振動しなくなることもあります。 オイルをたらし、畜圧式コンプレッサーで相当時間奈良鳴らし続ければ、ひょっとすれば改善するかも知れません<ただし音色は当然異なります。 >エンジン回してないと鳴りません これで想像できるのは、バッテリー電圧、充電中は14V程度ありますが、バッテリーのみでは12V、当然14Vの方がコンプッレサー勢いよく回ります。 したがって、内部の気密不良(12Vの回転では圧が十分上がらない)、または、モーターの回転不良。 >電子ホーンにもどしましたが、こちらはどんな状況でも僅かなチョン押しでも鳴ってくれます 蛇足です、それより、FIAMMフェラーリホーンは新品ですか?、どんな状況にあったものなのか、装着前のテストはどうだったのかの方が知りたいです。 それより、肝心なのは、コンプレッサーが回っているかです。 >エンジン回してないと鳴りません 鳴る、鳴らないだけでは、まるで小学生並みです、これもコンプレッサーが回っているのか、また回り具合の違いがどうなのかが必要です。 ホーン内部、音を発生する部分の腐食等でうまく振動しなくなることもあります。 オイルをたらし、畜圧式コンプレッサーで相当時間奈良鳴らし続ければ、ひょっとすれば改善するかも知れません<ただし音色は当然異なります。 >エンジン回してない... Q エアーホーンを取り付けようと思いますが純正ホーンとは別につけようと思います。 コンプレッサーは必要なときだけONに出来るようにしたいです。 そこでスイッチですが当初の予定ではON-OFFスイッチでコンプレッサー制御。 auctions. yahoo. 後ろの配線がわかりませんが配線が独立しているのでしょうか? また、これを使えないにしてもリレーは必要なんでしょうか? 皆様の意見よろしくおねがいします。 A ベストアンサー こんばんは、、、 自動車整備士を、しています。 小さい、電源で、大きな、電源を、利用するのが、 スイッチング回路(リレー)です。 お答えします。 1 :バッテリーの、+です。 2 :バッテリーの、-です。 4 、 5 は、それぞれ、、エアーホーンの+と、純正のホーン配線に、取付けします。 カーショップの、小物コーナーに、リレーが、売っているので、裏面を、見て、参考にすると、いいかもしれませんね、、、、 また、カーショップの、エアホーンが、売っている、箱の裏面を、読めば、かなり、参考に、なると、思います。 よろしく、お願い致します。 Q トラックが付けているような甲高い音のするホーンを探しています。 普通車に取り付けるので、12Vです。 いままではBOSCHのラリーストラーダ、ラリーエボリューションと使用してきて、それなりにマナーの悪い車への威嚇(語弊がありますけど)が出来ていたのですが、最近は車内を密閉して爆音で音楽を聴いているドライバーが多く鳴ってきているので、私のホーンも保安基準の範囲内で改良しないといけないかな?と思っています。 先日、トラックに付いているような甲高い音色を放つ軽トラックを見ました。 (汗)軽トラにつけれるのだから、そういう音色の12V商品があると思い質問しました。 ご助言お願いします。 電子ホーン、エアホーン問いません。 A ベストアンサー 前回の修正です。 トラック用品専門誌は、【カミオン】でした。 トラック用品とか、トラック部品とか、で検索すれば、いろいろ出てきました。 ドウでしたか。 今のところ、音が聞けるサイトは見つかってませんが。 取り付け方法は考えてますか。 自分もステップワゴンですが、 つけてますが、かなりでかいです、700ミリはあります。 3万ぐらいしました。 いい音です。 つけるとしたら、 でかいの、長いのをお勧めですが。 ヤンキーとか、電子ホーンなどなら、エンジンに隠せますが、どうしても、でかいと、車外になりますね。 回答として答えてますが、車検にはとおりません、 それどころか、つけているだけで、警察に捕まります。 整備不良とか何とか、理由をつけて。 最終的の答えとして、自分もつけていますが、 お勧めはしません。 route-2. html Q 純正のバックランプでは夜間バック時、暗く見にくいので 明るいバックランプを探しています。 amazon. amazon. 宜しくお願いします。 純正のバックランプでは夜間バック時、暗く見にくいので 明るいバックランプを探しています。 amazon. A ベストアンサー ライトマニアです。 私の車もT16でT20やT25に比べて照度が低いので、これまであらゆるバルブを試して(HID)も 10種類近く、数万円使っています。 HIDは最高照度になるまでの起動時間が長く、安定照度まで10秒近くかかるので 通常の車庫入れ程度だと、最初は暗く徐々に徐々にゆっくりと明るくなりますから 最高照度になる前に駐車は終わってしまい役に立ちませんでした。 LEDも有名なCREEのチップを使った50Wの凸レンズ仕様や、一発で9WのCREEチップの 大型レンズ付きなど、明るそうな物はほとんど試してきました。 現在はサーバーストークの全方向LEDのT16を使用していますが、これはおそらく現在発売されている T16LEDのバック球の中では一番明るいでしょうね。 cyberstork. どんなライトも明るい光源が一つの方がリフレクターにムラなく反射しますから、照射光に ムラがなく横方向も明るく照らします。 ただこのLEDはとにかく高いのが欠点で2球で1万円近くなりますから、実用的に確実に 明るくしようと思ったら、2番目に上げているCATZのハロゲンバック球が価格的には 購入しやすく色味も白すぎず明るくなります。 LEDは上記のサイバーストーク以外は、バックランプを通して外部から見た照射は 相当明るい爆光のように見えますが、室内からの照射光は全然明るくなく、特に横方向の 照射がほとんどないので、車の真横付近の障害物は非常に見にくいです。 明るく見やすくするならCATZのハロゲンにするのが一番でしょう。 このシリーズにもっと白い色味のバルブもありますが、雨などは見にくくなりますから ご自身が挙げているバルブが一番ですね。 ライトマニアです。 私の車もT16でT20やT25に比べて照度が低いので、これまであらゆるバルブを試して(HID)も 10種類近く、数万円使っています。 HIDは最高照度になるまでの起動時間が長く、安定照度まで10秒近くかかるので 通常の車庫入れ程度だと、最初は暗く徐々に徐々にゆっくりと明るくなりますから 最高照度になる前に駐車は終わってしまい役に立ちませんでした。 LEDも有名なCREEのチップを使った50Wの凸レンズ仕様や、一発で9WのCREEチップの 大型レンズ付きなど、明るそうな物はほとんど試してきまし... Q 近いうちにアライメント調整をしようと思います。 ちなみに車種はH12年レガシィです。 アライメント調整はどんなに高性能なテスターを使おうとも、 結局整備士の腕で良し悪しが決まると聞きました。 実際はどの程度違うのでしょうか? ディーラーなら一番安心できそうですが、工賃が凄そうです。 量販店はバイトの兄ちゃんがやってそうなので怖いです。 チューニングショップは敷居が高くて入りづらいのと、 いきなり行って「アライメント調整お願いします」なんて言っても適当にされそうな感じがします。 みなさんはアライメントはどこで調整されてますか? また違いが分かる方おられましたらいろいろ教えてください! あるいは量販店だけはやめろとか、よっぽど腕のいい整備士じゃなきゃ差は出ないとかもあったら教えてください。 サーキットはお遊び程度で腕も無いしタイムも気にしてません。 車はライトチューンだけです。 凝ったアライメントにするつもりもないですし、 そこそこ出回ってる車種なのでたとえバイトの兄ちゃんがやったとしても問題ないかもですが、 やっぱり気分的にイヤです。 よろしくお願いします。 近いうちにアライメント調整をしようと思います。 ちなみに車種はH12年レガシィです。 アライメント調整はどんなに高性能なテスターを使おうとも、 結局整備士の腕で良し悪しが決まると聞きました。 実際はどの程度違うのでしょうか? ディーラーなら一番安心できそうですが、工賃が凄そうです。 量販店はバイトの兄ちゃんがやってそうなので怖いです。 チューニングショップは敷居が高くて入りづらいのと、 いきなり行って「アライメント調整お願いします」なんて言っても適当にされそうな感じがし...

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【高級車の音は威圧的!?】なぜ車によってホーンの音は違うのか

フェラーリ ホーン

ちょっとした収入が出来たので、今回エアホーンを購入しようと思っています。 現在品定めをしていますが、ボッシュのエアーマジェスティックかフィアムのフェラーリホーンかで迷っています。 仮にフェラーリホーンを取り付ける場合、車両の両端(バンパー内)に取り付けようと思っていますが、フェラーリホーンの付属品を見るとエアホースが短く取り付けが出来ないようです。 そこで質問なのですが、このエアホースをコンプレッサ用のホースなどで長く(延長)した場合に、音に変化があるのでしょうか? また、コンプレッサからの配管の長短(場所が場所なので)でも音質に変化があるのでしょうか? 電磁ホーンは今までいろいろと試してきたのですが、エアホーンは初めてなので宜しくお願いします。 amon. 基本的には 黒は適当にアースです。 青は純正ホーン配線の+です。 赤はバッテリーからの直電 黄は、社外ホーン+です。 amon. php? 外側のどちらかをリレーの青に もう片方は純正ホーンのプラスに接続です。 ここまで書いといてナンですが・・・ 違法です。 ヤンキーホーン自体が違法品だと思います。 警音器として、 スイッチを押したらすぐに鳴る。 スイッチを話したらすぐに切れる。 音色が変化しない。 と言うのがあります。 音圧以外にはね。 スイッチで切り替えても、スイッチで切り替えることも違反です。 陸自次第、検査員次第ですが、「モノ」があれば動作させるように指示されます。 使えない状態は整備不良として跳ねられます。 使ってはいけない機器が着いていれば、当然跳ねられます。 やるやらないは自由ですけど、そこら辺は理解した上で考えてください。 amon. 基本的には 黒は適当にアースです。 青は純正ホーン配線の+です。 赤はバッテリーからの直電 黄は、社外ホーン+です。 amon. php? 外側のどちらかをリレーの青に もう片方は純正ホーンのプラスに接続です。 ここまで書いといてナンですが・・・ 違法です。 ヤンキーホーン自体が違法... Q ミツバ製ホーンハーネス(レスポンス補正回路付)をつかってFIAMMフェラーリホーンを付けたのですがかなり気まぐれです、チョン押し失敗するとしばらく鳴らなくなったりします それと装着直後はいつでも鳴らせたのにいまはエンジン回してないと鳴りません、リレーからカチカチ音はします。 念のためホーンに注油したりもしましたが、改善しません ホーンが悪いのかと思いエアーマジェスティックの偽物みたいのを安く買って取り付けたりしてみましたが、同じく気まぐれでした、改善方法についてアドバイスいただけたら助かります。 それより、肝心なのは、コンプレッサーが回っているかです。 >エンジン回してないと鳴りません 鳴る、鳴らないだけでは、まるで小学生並みです、これもコンプレッサーが回っているのか、また回り具合の違いがどうなのかが必要です。 ホーン内部、音を発生する部分の腐食等でうまく振動しなくなることもあります。 オイルをたらし、畜圧式コンプレッサーで相当時間奈良鳴らし続ければ、ひょっとすれば改善するかも知れません<ただし音色は当然異なります。 >エンジン回してないと鳴りません これで想像できるのは、バッテリー電圧、充電中は14V程度ありますが、バッテリーのみでは12V、当然14Vの方がコンプッレサー勢いよく回ります。 したがって、内部の気密不良(12Vの回転では圧が十分上がらない)、または、モーターの回転不良。 >電子ホーンにもどしましたが、こちらはどんな状況でも僅かなチョン押しでも鳴ってくれます 蛇足です、それより、FIAMMフェラーリホーンは新品ですか?、どんな状況にあったものなのか、装着前のテストはどうだったのかの方が知りたいです。 それより、肝心なのは、コンプレッサーが回っているかです。 >エンジン回してないと鳴りません 鳴る、鳴らないだけでは、まるで小学生並みです、これもコンプレッサーが回っているのか、また回り具合の違いがどうなのかが必要です。 ホーン内部、音を発生する部分の腐食等でうまく振動しなくなることもあります。 オイルをたらし、畜圧式コンプレッサーで相当時間奈良鳴らし続ければ、ひょっとすれば改善するかも知れません<ただし音色は当然異なります。 >エンジン回してない... Q エアーホーンを取り付けようと思いますが純正ホーンとは別につけようと思います。 コンプレッサーは必要なときだけONに出来るようにしたいです。 そこでスイッチですが当初の予定ではON-OFFスイッチでコンプレッサー制御。 auctions. yahoo. 後ろの配線がわかりませんが配線が独立しているのでしょうか? また、これを使えないにしてもリレーは必要なんでしょうか? 皆様の意見よろしくおねがいします。 A ベストアンサー こんばんは、、、 自動車整備士を、しています。 小さい、電源で、大きな、電源を、利用するのが、 スイッチング回路(リレー)です。 お答えします。 1 :バッテリーの、+です。 2 :バッテリーの、-です。 4 、 5 は、それぞれ、、エアーホーンの+と、純正のホーン配線に、取付けします。 カーショップの、小物コーナーに、リレーが、売っているので、裏面を、見て、参考にすると、いいかもしれませんね、、、、 また、カーショップの、エアホーンが、売っている、箱の裏面を、読めば、かなり、参考に、なると、思います。 よろしく、お願い致します。 Q トラックが付けているような甲高い音のするホーンを探しています。 普通車に取り付けるので、12Vです。 いままではBOSCHのラリーストラーダ、ラリーエボリューションと使用してきて、それなりにマナーの悪い車への威嚇(語弊がありますけど)が出来ていたのですが、最近は車内を密閉して爆音で音楽を聴いているドライバーが多く鳴ってきているので、私のホーンも保安基準の範囲内で改良しないといけないかな?と思っています。 先日、トラックに付いているような甲高い音色を放つ軽トラックを見ました。 (汗)軽トラにつけれるのだから、そういう音色の12V商品があると思い質問しました。 ご助言お願いします。 電子ホーン、エアホーン問いません。 A ベストアンサー 前回の修正です。 トラック用品専門誌は、【カミオン】でした。 トラック用品とか、トラック部品とか、で検索すれば、いろいろ出てきました。 ドウでしたか。 今のところ、音が聞けるサイトは見つかってませんが。 取り付け方法は考えてますか。 自分もステップワゴンですが、 つけてますが、かなりでかいです、700ミリはあります。 3万ぐらいしました。 いい音です。 つけるとしたら、 でかいの、長いのをお勧めですが。 ヤンキーとか、電子ホーンなどなら、エンジンに隠せますが、どうしても、でかいと、車外になりますね。 回答として答えてますが、車検にはとおりません、 それどころか、つけているだけで、警察に捕まります。 整備不良とか何とか、理由をつけて。 最終的の答えとして、自分もつけていますが、 お勧めはしません。 route-2. html Q 純正のバックランプでは夜間バック時、暗く見にくいので 明るいバックランプを探しています。 amazon. amazon. 宜しくお願いします。 純正のバックランプでは夜間バック時、暗く見にくいので 明るいバックランプを探しています。 amazon. A ベストアンサー ライトマニアです。 私の車もT16でT20やT25に比べて照度が低いので、これまであらゆるバルブを試して(HID)も 10種類近く、数万円使っています。 HIDは最高照度になるまでの起動時間が長く、安定照度まで10秒近くかかるので 通常の車庫入れ程度だと、最初は暗く徐々に徐々にゆっくりと明るくなりますから 最高照度になる前に駐車は終わってしまい役に立ちませんでした。 LEDも有名なCREEのチップを使った50Wの凸レンズ仕様や、一発で9WのCREEチップの 大型レンズ付きなど、明るそうな物はほとんど試してきました。 現在はサーバーストークの全方向LEDのT16を使用していますが、これはおそらく現在発売されている T16LEDのバック球の中では一番明るいでしょうね。 cyberstork. どんなライトも明るい光源が一つの方がリフレクターにムラなく反射しますから、照射光に ムラがなく横方向も明るく照らします。 ただこのLEDはとにかく高いのが欠点で2球で1万円近くなりますから、実用的に確実に 明るくしようと思ったら、2番目に上げているCATZのハロゲンバック球が価格的には 購入しやすく色味も白すぎず明るくなります。 LEDは上記のサイバーストーク以外は、バックランプを通して外部から見た照射は 相当明るい爆光のように見えますが、室内からの照射光は全然明るくなく、特に横方向の 照射がほとんどないので、車の真横付近の障害物は非常に見にくいです。 明るく見やすくするならCATZのハロゲンにするのが一番でしょう。 このシリーズにもっと白い色味のバルブもありますが、雨などは見にくくなりますから ご自身が挙げているバルブが一番ですね。 ライトマニアです。 私の車もT16でT20やT25に比べて照度が低いので、これまであらゆるバルブを試して(HID)も 10種類近く、数万円使っています。 HIDは最高照度になるまでの起動時間が長く、安定照度まで10秒近くかかるので 通常の車庫入れ程度だと、最初は暗く徐々に徐々にゆっくりと明るくなりますから 最高照度になる前に駐車は終わってしまい役に立ちませんでした。 LEDも有名なCREEのチップを使った50Wの凸レンズ仕様や、一発で9WのCREEチップの 大型レンズ付きなど、明るそうな物はほとんど試してきまし... Q 近いうちにアライメント調整をしようと思います。 ちなみに車種はH12年レガシィです。 アライメント調整はどんなに高性能なテスターを使おうとも、 結局整備士の腕で良し悪しが決まると聞きました。 実際はどの程度違うのでしょうか? ディーラーなら一番安心できそうですが、工賃が凄そうです。 量販店はバイトの兄ちゃんがやってそうなので怖いです。 チューニングショップは敷居が高くて入りづらいのと、 いきなり行って「アライメント調整お願いします」なんて言っても適当にされそうな感じがします。 みなさんはアライメントはどこで調整されてますか? また違いが分かる方おられましたらいろいろ教えてください! あるいは量販店だけはやめろとか、よっぽど腕のいい整備士じゃなきゃ差は出ないとかもあったら教えてください。 サーキットはお遊び程度で腕も無いしタイムも気にしてません。 車はライトチューンだけです。 凝ったアライメントにするつもりもないですし、 そこそこ出回ってる車種なのでたとえバイトの兄ちゃんがやったとしても問題ないかもですが、 やっぱり気分的にイヤです。 よろしくお願いします。 近いうちにアライメント調整をしようと思います。 ちなみに車種はH12年レガシィです。 アライメント調整はどんなに高性能なテスターを使おうとも、 結局整備士の腕で良し悪しが決まると聞きました。 実際はどの程度違うのでしょうか? ディーラーなら一番安心できそうですが、工賃が凄そうです。 量販店はバイトの兄ちゃんがやってそうなので怖いです。 チューニングショップは敷居が高くて入りづらいのと、 いきなり行って「アライメント調整お願いします」なんて言っても適当にされそうな感じがし...

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クラクション・ホーンのおすすめ人気11選!交換すれば高級感アップも|2020年最新情報

フェラーリ ホーン

: 本社所在地 (登記上の本籍地) Via Abetone Inferiore, 441053, (実質的な本社機能) 設立 自動車製造 事業内容 の製造および販売 代表者 (会長) (副会長) ルイ・カミッレーリ () 売上高 28億5400万(2015年) 純利益 2億9000万ユーロ(2015年) 従業員数 2,850人(2014年) 主要株主 23. は、、に本社を置く高級。 エンツォ・フェラーリ イタリアの元レーシングドライバー兼レーシングチームオーナーのによって、イタリア北部の近郊にに設立されて以来、主にと、のみを製造している自動車メーカー である(ちなみに設立以来4ドアセダンを作ったことはない)。 また、世界選手権等のでもあり、同選手権唯一の開幕より参戦を続けるコンストラクターでもある。 F1をはじめ、や、やなど数々のレースで活躍し、数々の伝説を残していることもあり、イタリアのみならず世界的にも高い人気とを持つ。 なお、現在フェラーリ社内で市販車部門とレーシングカー部門は別部門とされているが、両部門はマーケティングや人的交流などで密接に繋がっている。 設立以来独立した運営を続けていたが、に率いる・グループの事実上傘下に入り、のエンツォの死により大規模な株式の移動があり、さらにには FCA から離脱独立した。 しかし、その後もFCAの大株主のアニェッリ家と、その持ち株会社のエクソールが経営に影響力を持ち続けており、FCAの影響を大きく受ける的存在である。 前史 [ ] ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ設立 スクーデリア・フェラーリのアルファロメオと(車内)、エンツォ(左から2番目)、(右から3番目)、らと 12月に、のレーシングドライバー で、その後アルファロメオのディーラー「カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」の経営をしていたがレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設した。 当初は裕福なモータースポーツ愛好家をサポートする、のチームであり、4輪の他に部門もあった。 に息子のアルフレードが生まれたことで、エンツォはドライバーを引退してチーム運営兼アルファロメオの正規代理店に専念し、に化されたアルファロメオが活動を休止するとマシンを借り受け、チームとして当時イタリアを率いていたの主導によるイタリア政府のサポートも受け、などの強力なドライバーラインナップを擁して数々の勝利を記した。 その後チームはにアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した。 アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ設立 アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ 815(1940年) にエンツォは、アルファロメオとの誓約項目を避けるために、アルファロメオから手にした退職金で「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」という名の自動車製造会社をモデナに設立し、最初の自らの手によるモデル「815」を生産し、から行われたに参戦し好成績を上げた。 しかしその直後のに、イタリアがとを組んでいた同盟国のを支援するために、とにし、に参戦した。 このためイタリアにおけるモータースポーツ活動が全面的に禁止され、「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」も「815」の製造を中止し、イタリア軍の製造のためのなどの工作機械製造を行うようになった。 その後8月にイタリアがに降伏したものの、その直後にイタリア北部はに、つまり事実上の占領下になったこともあり、モデナの工場が連合国軍機の空襲を受け多くの工場が破壊された 上に、自動車製造やモータースポーツ活動は引き続き禁止された。 しかしエンツォは、戦後のモータースポーツ解禁に備えて自前の自動車工場をモデナ近郊のマラネッロに移設した。 沿革 [ ] フェラーリ設立 195C(1947年) 5月にイタリアを含むにおいて第二次世界大戦が終結すると、この後しばらくの間フェラーリのエンジンを設計することになったらを擁して 、より自前のレーシングカーを開発するようになった。 なお1945年には、エンツォとキャステルヴェトロに住むのリーナ・ラルディ・デリ・アデラルディとの間に、現在フェラーリの副会長を務めるが生まれた。 なおエンツォと正妻と愛人との二重生活(社内では愛人のリーナのことは、住居の所在地の名を取り「キャステルヴェトロ」)と呼ばれた)が、その後長く続くことになる。 には晴れて自らの名を冠した「 フェラーリ」を設立した。 処女作は創業初年度に製造したレーシングスポーツ「」であった。 「125S」は、フェラーリの手で同年開催されたグランプリに参戦し、いきなり優勝をあげることでフェラーリの名を一躍有名にした。 なお生産台数は2台のみであった。 また「125S」は、エンツォが懇意にしていたが、とのレースで連勝するなど、フェラーリのみならず、戦後におけるチャンピオンの復活も印象付けることになった。 生産開始とF1制覇 340MM(1953年) その後2台のみ生産された「195」をへて、早くも1948年にトリノ・モーターショーで発表した「」で、の「」と「」の2つの名高いレースを制覇し名声を高めた(しかもこれは同一のシャシー「0008M」を持つ単体であった)。 この「166」シリーズよりレーシングカーを兼ねたの少数受注生産を開始し 、ヴィットリオとジャンニーノ・マルゾットらの4兄弟が率いる「スクーデリア・マルゾット」や、アルフォンソ・デ・ポルターゴ、ブルーノ・ステルツィ伯爵などのモータースポーツに参戦するイタリアの裕福な貴族などに販売する とともに、ワークスとして「ミッレミリア 」や「」、「ル・マン24時間」や「」などのヨーロッパの著名なレースに参戦し、その多くで優勝を飾った。 さらにには、同年より開始された(F1)世界選手権への参戦を開始し、のグランプリで人ドライバーのが初勝利を挙げた。 なおフェラーリは、同選手権が開始されてから現在まで参戦している唯一のレーシングチーム及び自動車メーカーである。 キネッティの貢献 エンツォの友人で、のル・マン24時間と24時間をフェラーリ・166MMで勝利(パートナーはの2代目セルスドン)した優秀なレーシングドライバーで、その後アメリカ東海岸でフェラーリの正規輸入販売代理店「ルイジ・キネッティ・モーターズ」や「ノース・アメリカン・レーシングチーム(N・A・R・T 」を経営することになるルイジ・キネッティ の勧めにより、当時の世界最大の自動車市場であるアメリカ市場向けの「」(1950年)や「」 (1951年)、「」(1952年)など、次第に車種と販路を拡げていった。 いずれも旧モデルとなったレーシングカーをデチューンして市販車に仕立て上げ、欧米の王侯や大富豪、映画スターなどの非常に限られた層を中心に販売していたものであった。 なお当時のフェラーリは車体(シャシーとエンジン)のみを製作し、またボディはや、スカリエッティや、ボアノなどのに委託していた。 その後まで60年以上続くピニンファリーナとの関係は「」(1952年)より始まる。 またイタリアやフランス、アメリカ向けに作られたものであっても、そのほとんどがであった。 この右ハンドルというフェラーリの伝統は1950年半ばまで続くこととなり、その後も右ハンドルのフェラーリは、イギリスや日本、オーストラリアや香港向けとして現在まで続く。 市販車製造 250GTボアノ(1956年) 好調なセールスに支えられたフェラーリは、その後「」シリーズで初めてレーシングカーを基にしない純粋な「市販車」の製造を開始した。 なお故障の多さをめぐるエンツォとのやり取り、その結果の「アウトモビリ・」の設立は、今も真実であるかは置いておき語り草になっている。 その一方で、「250MM」や「250GT TdF」などの2シーターモデルは、モータースポーツへの参戦のための取得を目的としたもの、もしくは多少のモディファイをすることで各種レースへの参戦も可能とした「ロードゴーイング・レーサー」であった。 実際に、エンツォは自社の市販車に「スポーツカー」という、軟弱かつ公道での使用を強くイメージさせるような言葉は用いなかったばかりか、公道での乗り心地や快適性を求める購入者を蔑んでさえいた。 12気筒エンジンの「逸話」 さらにエンツォは「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」と公言していたという逸話が残っており 、実際にこの逸話通りに、この頃生産されていたすべての市販車はコロンボやが設計したエンジンを搭載していた。 ただし、1950年代のフェラーリの市販車にはV型12気筒エンジン搭載車しか無かったにもかかわらず、レース専用モデルにはレギュレーション合致や高性能化、軽量化による性能向上の観点から、当時のF1マシンや「500モンディアル」のように、ランプレディの設計した優秀な4気筒や6気筒エンジン搭載モデルが多数存在していた ため、この発言は当時の市販車のマーケティング効果を意識したものと取られている。 なお、「」や「」をはじめとして、にデビューした「」からに生産を中止した「」までの期間を除き、現在の旗艦モデルの「」に至るまで、限定生産車を除く市販車のトップレンジを担っているのはフロントエンジン(FR)、V型12気筒のモデルである。 高い評価 250カリフォルニア・スパイダー(1959年) その後フェラーリの市販車は品質や機能性、生産効率を高めて行き、にはピニンファリーナと高級スポーツカーカテゴリーにおけるデザイン及びボディ製造の独占契約を結び 、デザイン面と生産効率面における優位性を獲得することで生産台数を順調に増やして行ったものの、その価格は依然として高価なものであり、その購買層は非常に限られていた。 しかし、これらのフェラーリの市販車は、F1世界選手権や「ミッレミリア」、「ル・マン24時間レース」や「」をはじめとするレースにおける活躍によるブランドイメージの向上や性能の高さ、デザインの美しさが高い評価を受けて、にはヨーロッパや北米を中心に高性能市販車としての地位を確固たるものとしていった。 この頃には各国での販路の拡大も進め、当時から現在において主要市場の1つであるイギリスでは、自社のワークスドライバーでかつイギリスにおける正規輸入販売代理店を経営していたの死後のに、モータースポーツの経験が豊富で、フォードのディーラーを経営していたロナルド・ホーア大佐率いる「マラネロ・コンセッショネアーズ」に正規輸入販売代理店を委託するとともに 、ホーア大佐率いる同名のレーシングチームも24回の優勝を飾るなど大いに活躍した。 さらに、エンツォとホーア大佐は引きつづき、右ハンドル仕様をほとんどのモデルに用意した(さらに同社はにはへの輸出にも関わることとなる )。 またアメリカにおいても、キネッティの手によりのある西海岸にも販路を広げるとともに、フェラーリのアメリカにおけるセミワークスチーム的存在の「ノース・アメリカン・レーシング・チーム」が創設され、「」や「」、「ル・マン24時間レース」をはじめとする様々なレースに参戦し好成績を上げることでその名声を高めることになる。 また、欧米においてはの国王やの国王などの王族や貴族、や などの大富豪やジェット族、やその妻の などのアーティストや映画俳優などといったが愛用し、その姿が世界各国のや雑誌の紙面を飾ったこともそのイメージを押し上げる結果となった。 なお、フェラーリは、現在に至るまで自社製品の広告を全く行わないことでも知られている。 経営危機と「宮廷の反逆」 250GTE(1961年) このようにフェラーリは世界各国で高い名声を勝ち取り、その生産台数も順調に増加を続けたものの、エンツォによる過剰なモータースポーツへの投資や、手作業が多い旧態依然とした生産設備による生産コストの高さが収益を圧迫した。 1956年6月には正妻のラウラとの息子の「ディーノ」(エンツォの後継ぎとされ、実際にV6エンジン開発担当のフェラーリ社員でもあった)がで死去し、さらに翌1957年にはエンツォが「ミッレミリア」におけるアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵と観客死傷事故、特に数人の子供の死傷の責任を問われ起訴されたがからくもその後無罪となるなど、つぎつぎと災難に見舞われた。 さらに当時イタリア北部で勢力を増していた、率いるなどの政党が後援したと、それがもたらした度重なるやなどが経営に悪影響を与え、のF1では、メカニックのストライキによりマシンの整備ができずに出走を取りやめることになってしまったために、が僅差で年間チャンピオンを逃すという事態になってしまった。 また10月には、息子ディーノの死後精神的不安定となった妻のラウラ による過度な製造及び開発現場、モータースポーツの現場までに至る介入に反対して 、やジオット・ビッザリーニ、ロモロ・タヴォーニ、エルマーノ・デ・ラ・カーサ、ファウスト・ガラッソ、ジローラモ・ガルディーニ、フェデリコ・ジヴェルディ、エンツォ・セルミら、まさにフェラーリとスクーデリア・フェラーリの黄金期を支えた「中興の祖」とも言える8人の部署長級のメンバーが、を経由してエンツォに抗議を申し出た手紙を送付した。 しかし、この手紙に怒ったエンツォに定例会議の場で全員が解雇される事件「宮廷の反逆」が起きた ことも影響し社内が混乱し、には経営が苦境に陥り、アメリカ人のジョン・ミーコムにより株式の一部を買い取る話があったが成功しなかった。 なお8人のうち、元エンツォの秘書でスクーデリア・フェラーリの監督のタヴォーニをはじめ、その後フェラーリに戻るようオファーを受けた者もいたが 、そのようなエンツォからのオファーを受けたものはデ・ラ・カーサのみで、残りの7人に再びフェラーリの敷居をまたぐものはいなかった。 ASAの失敗 250GTO(1962年) この様な状況を打破すべく、エンツォは安価な小型スポーツカーを投入することで収益構造を改善することを企画し、1959年に試作車である2ドアモデル「854」を完成させ、フォーミュラ1ドライバーたちをテストドライバーに採用した。 その後ジョアッキーノ・コロンボが開発した高性能な4気筒エンジンとがデザインしたスタイリッシュなボディを、ジオット・ビッサリーニが設計したシャシーに搭載した小型2ドアクーペ「ASA 1000 GT」を1961年の・モーターショーにて発表した。 しかし発表時にはエンツォ自らプレゼンテーションを行ったほか、フェラーリのディーラー網を通じて販売されるなど、フェラーリの影響が色濃くみられるモデルとなった。 そのスタイリングと操縦性、エンジンは高い評判を得たものの、1000cc級の4気筒エンジンを搭載した小型クーペとしては価格が高価であった上に、フェラーリのブランドが与えられなかったこともあり販売は芳しくなく、にはスパイダーモデルが追加されたほか、1800ccにパワーアップしたモデルがルイジ・キネッティの手によりアメリカでも販売されたものの、からにかけてクーペとスパイダー併せて120台程度が生産されたのみで、エンツォが意図したフェラーリの経営と収益構造の改善には貢献しなかった。 フォードの買収騒動 ディーノ・206SP(1967年) このような状況を受けてには、ヘンリー・フォード2世会長率いるが「アメリカにおける世代の顧客へのアピールを狙い、モータースポーツ部門の拡大を考えていた」ことを理由に(この「理由」には、後述のような「本当の理由」を隠すためという説がある )、取締役のドン・フレイ率いるチームを使いフェラーリの交渉を進めていることが明らかになった。 いずれにしても、このことはや、など、まだ民族資本系メーカーが殆どのイタリア自動車メーカーと、イタリアのマスコミの間に大きな驚きをもって受け止められた。 4月にはフォードによるも終わり、買収価格などの条件も双方で合意し 、5月にマラネッロにフォード首脳部一同を招いて買収契約調印するかと思ったが、その場でエンツォが突如買収交渉を止めたことで、この話は最終的に決裂した。 エンツォはのちに「私の権利と品位の観点から、また、メーカーとして、起業家として、そしてフェラーリ従業員のリーダーとして、息のつまる官僚体制が巣くうフォード・モーター・カンパニーのような巨大な機械の下で働くことは不可能だ」と語った。 交渉決裂の理由は明らかにされていないが、フェラーリのモータースポーツ部門における決定権の委譲をエンツォが嫌ったという説 、直前にフォードが大幅に価格を値切った買収金額の不一致という説、さらに「166バルケッタ」以来の著名なフェラーリの顧客で、そのフェラーリを外国の企業に渡したくなかった・グループのトップの社長の意向 が働いたなど、複数の理由が影響していたという説がある。 ル・マンでの戦い いずれにしても、これに不快感を持ったヘンリー・フォード2世は、「」などのマシンで連勝を続けていたフェラーリをル・マン24時間レースで破るべく、すぐさま数か月の間に膨大な資金を投入してイギリスのスラウにモータースポーツ開発専門部署の「フォード・アドバンスド・ビークル」部門を設立し、ヨーロッパのレースを戦う基地を作った。 さらにジョン・ワイヤーを監督に招き、に参戦していたイギリスのエリック・ブロードレィ率いるの車両を買い取って、自社製エンジンを載せたイギリスとの混血車のを製作し 、に3台を持ち込んだ。 自社のレーシングドライバーたちから「デュース」と呼ばれたヘンリー・フォード2世は 、イギリスのシャシー技術に膨大な予算と人材を投じて実戦に投入したものの、つぎはぎのマシンの実戦経験の不足と性急な開発はすぐに実を結ばず、1964年は勝利はおろか完走すらできなかった。 その後も1965年にかけてル・マン24時間レースやスパ・フランコルシャン、モンツア、さらにアメリカのやセブリング、などでも数多くの敗北を経た上に 、ジオット・ビッザリーニの後任としてフェラーリのレース部門の開発責任者となったの引き抜きさえ画策しているが、これには失敗した。 これに対してエンツォは、フォードの若手ドライバーのの引き抜きに成功している。 上記「宮廷の反逆」により、若くしてエンツォに認められたフォルギエーリの多額な契約金での引き抜きには失敗したものの、フォードはのル・マンにをドライブし優勝したが、心臓病のためそのあと引退し「」を設立したやその部下のフィル・レミントン。 また「ホルマン・ムーディ」や「アラン・マン・レーシング」など、イギリスのモータースポーツの技術にアメリカのレース業界総動員といえる技術的提供も受け 、なりふり構わず莫大な資金をかけてマシンの開発を進めた。 さらに金にものを言わせて、に新型「フォード・GT40・マーク2」を8台も大量のエントリーを行ったこと、そしてが政治的理由により突然シートを奪われるなど、フェラーリ内部のゴタゴタがあったことにより、最終的にル・マンでフェラーリを破ることになる。 なお、ここまでヘンリー・フォード2世がル・マンでフェラーリを破ることにこだわったのは、エンツォに買収交渉を袖にされたことだけではなく、からをしていた(その後1965年に結婚。 に離婚 )イタリア人のの愛人、マリア・クリスティナ・ベットーレ・オースティン が、フォードではなく、フェラーリの大ファンであったことが影響していると言われている(実際にその姿がによってル・マンで目撃されており、イタリア人らしくフェラーリを応援するマリア・クリスティナに対し、ヘンリー・フォード2世が嫌な顔をするシーンが目撃されている)。 またフェラーリ買収についても、ヘンリー・フォード2世が1963年に不倫を始めた(イタリア人の)マリア・クリスティナにいいところを見せるため、「イタリアの至宝」と言われたフェラーリを買収しようとしたという噂もあった。 また、このように「愛人にいいところを見せよう」と、先代が儲けた莫大な資金にものを言わせ買収こそ失敗したものの、子供じみた物量作戦でル・マンでの勝利をもぎ取った話は、「金がすべて」のアメリカでは「美談」として通るが、ヨーロッパをはじめとする各国では「恥ずべきこと」と受け取られ、現在でもヨーロッパではフォードとアメリカの評価は決して高くない。 実際に、にこの騒動がアメリカで『』として映画化されたが、ヨーロッパではその題名では受け入れられず、イタリアやイギリス、フランスなど主要なヨーロッパ諸国では『ル・マン66』と作品名が変わっている 上に、これらの国では 日本でも 興行成績も芳しくなく終わった。 フェラーリは、翌年に発表した「」に「デイトナ」の愛称をつけるなど、この勝利を存分に利用した。 しかしスクーデリア・フェラーリは、もはや莫大な資金がかかるようになったで撤退し 、またF1でも同年からまで1勝しか挙げられなかった。 さらに当時のイタリアは、が後押ししたイタリア共産党が未だに猛威を振るい、また彼らが支援した「熱い秋」と呼ばれるストライキを中心とした労働争議が、ただでさえ悪化したフェラーリの業績をさらに悪化させた。 もはやエンツォの手による旧態依然とした組織のフェラーリが、荒れ狂う労働争議をコントロールし、単独で市販車(ASAという別会社もあった)を手掛けながら、F1とプロトタイプを戦うのには限界が来ていた。 これらのV型6気筒エンジン搭載車は、当初は前述の「12気筒エンジン以外のストラダーレ(市販車)はフェラーリと呼ばない」というエンツォの言葉通り「ディーノ」ブランドが与えられ、フェラーリの名が冠されることはなかった。 キャブレター、カム、ピストンに至るまでフェラーリ、フィアットともにまったく同じ仕様で排気レイアウトの関係上フィアットの方が有利なのにもかかわらず、的配慮とチューンの関係から馬力が少ない仕様になっていた。 フィアット傘下へ 365GT4BB(1973年) その後フィアットとの提携が進み、1968年にフェラーリは完全にフィアット・グループ傘下に入ることで経営の安定と、多額の経営資金を得ることと新技術の導入を図ることになる。 その後エンツォは、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いて、モータースポーツ部門()の指揮に専念した。 なおフェラーリの株の10パーセントはエンツォが引き続き所有するなど、名目上での資本関係は保ちつづけした。 その後、フィアット・グループの会長の指揮のもと、フィアットからの人員を開発から経理に至るまで様々な部門で受け入れる中で、に当時成績不振に陥っていたスクーデリアのマネージャーに就任したのが、フィアット・グループ創業者のアニェッリ一族につながる家柄の出身で、のちにフェラーリ会長(とフィアット・グループ会長)を務める若きであった。 なおモンテゼーモロはジャンニ・アニェッリと似ていたので、「アニェッリと愛人の間に生まれた庶子」との噂が絶えなかった。 ディ・モンテゼーモロは、その後スポーツカーレースからのワークス参戦の撤退やマシンの開発撤退とF1への専念など、スクーデリア内の再編を行い、さらにスクーデリア内ではから加入した人ドライバーのと共にチーム改革を行った。 改革には様々な社内外からの抵抗にあったものの、この年のGPでF1通算50勝に到達した後、にはラウダがドライバーズチャンピオンを獲得する などチームを立て直し、まで同職を務めた後、フェラーリの親会社であるフィアットの役員に就任する。 なお1969年には、かねてから関係の深かったカロッツェリア・スカリエッティと資本関係を結んだ(その後に同社を買収し、ボディ製造部門とする) ほか、にはマラネッロの本社工場の西側にある果樹園を取得し、新たにF1をはじめとするレース専用車や市販車のテストコースとして使われる「」が造られ 、併せてサーキット内にエンツォの別宅やピットなども設けられるなど、フィアット・グループの傘下に入ったことで流れ込んだ資金と人材を、市販車とレース部門に積極的に活用し始める。 しかしながら、本社正門前にある「リストランテ・キャバリーノ」は1975年に売却されている(しかしその後もフェラーリ社内の顧客用のコーヒーに「リストランテ・キャバリーノ」のものが使用されるほか、にある「フェラーリ・ワールド」内に支店を構えるなど、両社はつかず離れずの関係にある)。 1973年には、名車と称された「」を引き継いでフェラーリのトップレンジを担う12気筒モデルとして「」が登場した。 同車はフェラーリの市販車として初めて最高時速300キロを超えるモデルとなり(公称時速302キロ) 、またV12気筒ミッドシップの車種は重心が高くモータースポーツに向いていない上、スクーデリア内の再編でモータースポーツ参戦こそなくなったものの、その後約20年に渡り生産され市販車としてのヒット車種となる。 これらのモデルは新たに開発されたエンジンを、のがデザインしたボディ「ヴェトロレジーナ」に搭載した(これはイタリアの労働ストライキにより当初予定していたスチール製ボディの生産が間に合わなくなったためであり、には通常のスチール製ボディに戻された )。 これらのV型8気筒エンジンを搭載したモデルは、6気筒エンジン搭載モデルとは違い最初からフェラーリブランドが与えられ「ピッコロ・フェラーリ(小型フェラーリ)」と称された。 32」に使用された。 この時に始まったフェラーリのV型8気筒路線はその後「」、「」、「」、「F430」や「カリフォルニア」、「」、そして現在の「F8トリブート」と「ポルトフィーノ」、「」などへと発展し、自動車メーカーとしてのフェラーリの収益の屋台骨を支える系譜となった。 その後のエンツォ 328GTS(1985年) エンツォは、ついに1977年にはフェラーリの会長職を退くものの、その後もマラネッロに住居を構え続け、市販車の開発からスクーデリア・フェラーリの運営まで大きな影響力を保ち続けた。 さらに1981年3月にはスクーデリア・フェラーリの代表として、(国際自動車スポーツ連盟)と(F1製造者協会)との間で締結された「」締結の立会人となるなど、F1界で多大な存在感と発言力を有していた。 またには、これまでの功労が認められ、FIAゴールドメダルを受賞している。 その為もあり、イタリア国内では「北の」(南の教皇とはに住居を持つ)と呼ばれるほど、世界のモータースポーツや自動車業界への影響力は大きかった。 限定生産 には、(世界ラリー選手権)のトップカテゴリーであるの(参戦公認)を得ることを目的に「」を開発したものの、WRCで戦うマシンのトレンドが四輪駆動車に急激に移りつつあったために参戦を断念し、限られた台数が生産され販売された。 「288GTO」は、あくまでグループBの公認を取得するための規定生産台数をクリアするため限定生産となったものであり、わずか272台が生産されたに過ぎなかった が、その後「」を経て、創業40周年記念モデルの「」が限定生産、販売され、生産開始直後のエンツォの死去と世界的な好景気を背景に人気を博し、更には「F40 コンペティツィオーネ」や「F40 LM」も生産されたことから、以降はこのような限定生産を節目の年に行うことになる。 創業50周年を迎えたには「」 、創業55周年には、当時ピニンファリーナに在籍していたデザイナーのがデザインした「」 、そしてにはフェラーリとして初めてのハイブリッドである「」や「ラ・フェラーリ・アペルタ」といった限定生産モデル(スペチアーレ)や、「550バルケッタ・ピニンファリーナ」や「599GTO」、「SA アペルタ」や「F12 TdF」などの既存車種を改良した限定生産モデルを発表し、フェラーリ自らとその公認ディーラーが選択した顧客に対して販売している。 エンツォの死 F40(1987年) 80歳を超えてもエンツォは多忙な公務にいそしんでいたものの、にモデナ大学からのを授与された際の式典以降は社外に姿を現さなくなり、6月にがマラネッロの本社工場を訪問した際にもメッセージのみで姿を現さなかったことから、イタリアのマスコミからは「深刻な状態にあるのではないか」と噂された。 実際にエンツォはこの時に侵されており、その後も懸命な治療を続けたものの、回復することなくに没した。 90歳であった。 なお、夏の休暇を考慮され、発表はに行われた。 イタリアが世界に誇る自動車会社の創始者かつ、F1世界選手権におけるイタリアの「ナショナルチーム」の創設者の死去に際して、イタリア全体が喪に服した。 なおエンツォはモデナのサン・カタルド墓地に埋葬された。 生前に行われた取り決め通り、エンツォが所有していた株はかねてから資本関係にあったフィアット・グループによって買われ、フェラーリはレース部門も含めて完全にフィアット・グループの管理下に収まった。 しかしその後も、エンツォとリナ・ラルディとの間に生まれた次男のが、のあるフェラーリの株を10パーセント所有し、フェラーリの副会長を永続的に務める など、「創業家」であるフェラーリ家との繋がりは保ち続けている。 エンツォ亡き後の混乱 456GT(1992年) さらにエンツォ亡き後、世界中の自動車ジャーナリストからは「エンツォのいないフェラーリはフェラーリ足り得るか」と言われるなど、その行き先が危惧された。 さらに当時のフェラーリは、エンツォ時代から長年投資を怠っていた市販車部門の生産設備が旧態化し、品質管理と生産効率、収益性に大きな問題を抱えていた上に、「412i」や「モンディアル」などの中心モデルの旧態化がすすんでおり、さらにエンツォの死後翌年に出た「」の初期型の設計と品質管理にも大きな問題があった。 しかし、このような経営上の問題を解決するべく強いリーダーシップを取り、さらに親会社のフィアットからの必要にして十分な投資を取り付け、必要な部署に配分することができる人材に欠いていた。 またスクーデリア・フェラーリも、1989年に長年チームマネージャーを務めたに代わり、アルファロメオのスポーティングディレクターのがF1の指揮を取ることになる。 エースドライバーのやがチームの管理能力を問うコメントを発し、第4戦後にフィオリオは更迭される(突然の解任劇の裏には、フィオリオとが進めていた移籍交渉がフェラーリの幹部を怒らせたことも関連していた )。 チーム内のお家騒動が災いして、デザイナーのやスティーブ・ニコルズが突然チームを脱退したほか、のレース終了後にアラン・プロストが放出されるなどごたごたは続き 、完全にチームは悪循環に陥っていたが、このような混乱を収拾できるものはいないまま、4年シーズン目が過ぎようとしていた。 モンテゼーモロによる改革 360モデナ(1999年) この様な状況を解決すべく、エンツォの死後3年が経過した11月には大株主のフィアットのジャンニ・アニエッリ会長の肝いりで、かつてはエンツォの下でスクーデリア・フェラーリのマネージャーとして辣腕を振るい、の事務局長を務めたがフェラーリ社長に就任した。 これらの新型車は、劇的な品質の改善と新技術の導入による高性能化や故障の低減、内装の質感の向上、そして安全性の向上のみならず、「F1」や、アンチロックブレーキやフルオートエアコンなどの安全装備や快適装備の積極的な投入、車内の手荷物スペースやトランクルームの容量の拡充などにより 、運転初心者や、道路状況が劣悪ななど、これまでフェラーリに手を出すことのなかった新たなオーナー層の拡大に成功し、世界各国の市場においてこれまでにない好調な業績を上げた。 またには、「348チャレンジ」による「」が開始された。 その後同シリーズはから北アメリカ、にはアジア太平洋で開催されるなど世界各国へと開催地を広げ、フェラーリのイメージ向上と収益向上に貢献することになる。 新体制を率いて改革を成し遂げたモンテゼーモロはその手腕を買われ、ジャンニ・アニエッリ会長の死後の6月に、親会社のフィアット・グループの会長にも兼任することになった。 モンテゼーモロは、フィアット・グループ会長就任後ただちにフェラーリの傘下にを加えて、マセラティにフェラーリのV型8気筒エンジンを搭載し、さらに製造工程においても一部の工程を統合させるなど、ブランドイメージの向上と生産における合理化を同時に行うことで、フィアット・グループに買収する以前から長年経営状況が安定しなかった同社を復活させ、さらにはとの経営統合が破談になるなど苦境に陥ったフィアット・グループをも建てなおした。 なおモンテゼーモロは、この頃イタリア人女優の(「フェネック」とも呼ばれることがある)と婚約したがその後破棄し、その後2000年に3人目の妻と結婚した。 なお、フェネシュの息子のエドウィン・フェネックは、元フェラーリ・ジャパンの代表兼CEOで、モンテゼーモロの退任後の現在もフェラーリの北アメリカ部門の代表兼CEOを務める。 スクーデリア・フェラーリの改革 612スカリエッテイ(2004年) さらにモンテゼーモロは、F1において長年チャンピオンの座から遠ざかっていた(選手権は以降、選手権はが獲得した以降)だけでなく、お家騒動が続き優勝すらおぼつかなくなっていたスクーデリア・フェラーリの改革も進めることになる。 新体制を敷いたスクーデリア・フェラーリは直ちに好成績を上げるには至らなかったものの、1992年からデザイナーのジョン・バーナードを呼び戻し、イギリスに新たなテクニカルオフィスであるフェラーリ・デザイン・アンド・デベロップメント(FDD)を設立した。 またアドバイザーとしてニキ・ラウダを招聘するなど新たな試みを取り入れた。 ラウダは1993年のインタビューで「F1に正しい方向性を与えるのはフェラーリ以外にありえない。 だから平日でもマラネッロに行ったり、一生懸命やってるよ」「現役時代よりも今が一番フェラーリに深く関わってる。 私は何か頼まれたら全力でそれを行う人間なんだよ」と話すなど、一丸となってチームの改革を進めた。 以降にはマクラーレンから呼び戻したとが勝利を挙げたほか、コンスタントに表彰台に立つなど成績が向上した。 改革が進んだには16年ぶりのコンストラクターズ・チャンピオンを獲得し、には、からフェラーリに移籍したが21年ぶりのドライバーズ・チャンピオンを獲得し、それはまで連続して続いた。 さらにや、などの経験豊富なドライバーと、監督や、やなどの国籍にこだわらないメンバーが開発に関わった戦闘力の高いマシンを投入し、前半にはコンストラクターズ部門とドライバーズ部門の両方で複数年連続でタイトルを奪取するなど、再び絶頂期を迎えることとなった。 好調な収益 599GTB(2006年) 名作とされる「360モデナ」をリデザインし、エンジンもパワーアップした「F430」や、新たなデザインの「599フィオラノ」、そしてピニンファリーナのデザイナーのがデザインした「612スカリエッテイ」や限定車「エンツォ」などが好評を博す中、には設立60周年を迎えた。 同年のF1では、コンストラクターズ・チャンピオンを獲得するとともに、がドライバーズ・チャンピオンを獲得した。 そのかいもあり、()後に世界経済が低迷し、親会社のフィアットが他社()との資本提携を模索した他、いくつかの自動車メーカーが破産や事業停止を余儀なくされた中でも、ヨーロッパ諸国や日本、アメリカやなどの主要市場で好調な販売実績を維持した 上に、や、などの新興国において積極的な事業展開を進めた結果、好調な業績を維持し続けた。 ブランディング向上 カリフォルニア(2008年) エンツォ同様、モンテゼーモロが顧客の間に飢餓感をあおり、希少性を維持するために年間生産台数を抑制する政策を取ったため、そのような中でも高収益を維持すべく、後半からにかけては、中古のF1マシンの販売とメンテナンスを行う「F1クリエンティ」や 、「FXX」や「599XX」等の台数限定のサーキット走行専用モデルの開発と販売、メンテナンスを行う「XXプログラム」を開設した。 同時期には、フェラーリの世界的に高い知名度と人気を生かしたブランド(ライセンス)ビジネスも好調に推移し、専門部署を設立するなど商標管理を徹底した上に、衣類やのみならず、や、さらにはに至るまで、様々なジャンルの企業と提携を進めた結果、には収益の3割を占めるほどに成長した。 環境対策 ラ・フェラーリ(2013年) 2000年代中盤以降は、ヨーロッパの自動車メーカーに与えられた市販車の排出規制などに対する環境対策に本格的に力を入れ始めており、にはフェラーリ初のV型8気筒直噴エンジンを搭載した「458イタリア」の販売を開始したほか、1月にはと共同開発したフェラーリ初のハイブリッド機能「」を搭載した試作車である「599 HY-KERS」を公開した。 同年には、フェラーリ初の機能や燃料ポンプ、電動エアコンの圧縮制御などのパフォーマンスを維持しつつ環境負荷を減らすシステム「HELE」を搭載した「カリフォルニアHELE」を発表した。 高性能と低燃費の両立を目的にした「HELE」(「High Emotion Low Emission」の略である)システムは、「458イタリア」や、2011年に発表された、フェラーリ初の4輪駆動システムを持つ V型12気筒直噴エンジン搭載の4座「」(フェラーリ・フォー)や、2012年に発表された当時のトップモデルの「」にも搭載されている。 さらに環境対策に特に関心の高い日本市場においては、同システムは全ての市販車種に標準装備された。 には、「HY-KERS」システムを搭載したフェラーリ初の市販ハイブリッドカーである「」を、にはで開催された「」において、「ラ フェラーリ」をベースにしたサーキット走行専用モデルの「」を発売した。 なお「ラ フェラーリ」発売当時にモンテゼーモロ会長は、今後のハイブリッドモデルのラインナップ拡充に含みを持たせたが、「完全な電気自動車を発売する事は考えていない」とコメントした。 しかし、ヨーロッパにおける規制強化などから市販車の二酸化炭素排出規制などに対する対策は急務とされ、2014年に発表された「」と、に発表された「」では、さらなる高性能と低燃費の両立を目的にしてV8エンジンの化が行われた。 なお、フェラーリにおいてターボエンジン搭載の市販車が発売されるのは、1990年代初頭にF40が生産中止になって以降20数年ぶりの事である。 また今後のモデルの登場についても、社内でモンテゼーモロによるアナウンスがあり、5年に1回のビッグマイナーチェンジと、10年に1回のモデルチェンジを基本に、限定モデルやスパイダーを投入することで、1年に2-3の新モデルを投入していくことを表明した。 だがそのアナウンスも、例えば看板車種の「458イタリア」(2009年発売)が、「488GTB」(2015年発売)を経て「F8トリブート」(2019年発売)までベースモデルとして10年以上も経過しているなど、この発表は次の件により微妙となった。 モンテゼーモロ退任 ポルトフィーノ(2017年) 終息後の世界的な好景気を背景に、全世界での販売が好調を続ける中でもに入って以降はF1では低迷が続き、コンストラーズ・チャンピオンを獲得できない年が続いた ことで、1991年より長年フェラーリを率いてきたモンテゼーモロ会長の指導力を問う論調がイタリアのメディアを中心にささやかれた。 さらに、上場とその後の経営戦略、さらにフェラーリ会長を務めながら、やなどのフェラーリとの取引がある複数の企業、さらにはフェラーリの本業とは全く関係のない、むしろ利益が相反するともいえるに投資し、経営陣に名を連ねていること などを巡って、モンテゼーモロ会長と、エンツォの息子でフェラーリの副会長のピエロ・フェラーリ や、 FCA の最高経営責任者となったとの間の確執が、2013年頃からイタリアのメディアを中心に伝えられた。 2014年9月には、F1イタリアグランプリの開幕直前にイタリアのメディアを中心にモンテゼーモロの退任が噂されたものの、F1の現地を訪れた本人はこれを否定した。 しかし同月に、1970年代にスクーデリア・フェラーリの立て直しを行った後にフェラーリに戻り、以降23年に渡ってフェラーリの経営を引っ張ってきたモンテゼーモロの退任が発表された。 11月に退任した後はマルキオンネがフェラーリ会長を兼務することとなった。 上場と再独立 会長交代のゴタゴタがあったものの、にはマルキオンネやピエロ・フェラーリ、やアメデオ・フェリーザら経営陣の立会いの下でニューヨーク証券取引所に上場した。 取引の際に使われる証券コードは「RACE」を採用している。 なお、上場により収益の継続的向上を迫られたことから、デザインを1950年代以来委託してきたピニンファリーナ から社内のデザインセンターに一本化するなど内製率を向上させるほか、売り上げの現金回収の速さが世界的に早まったほか、これまではあえて抑制していた生産台数の増加を検討し、併せて納車待ちリストの短縮を図る など、これまでは手を付けなかった新たな経営戦略を検討、導入することになった。 1月3日に、FCAはフェラーリの同グループからの離脱独立の手続きが完了したと発表するとともに、登記上のをイタリアからのに移した。 これでフェラーリは再び独立した会社となったが 、その後もが大株主でアニエッリ家が経営に影響力を持ち続けることには変わりはなく、FCAから送り込まれた者がフェラーリ会長を兼務することや、やアルファロメオのエンジンの委託生産が本社工場で引き続き行われるなど、FCAの影響を大きく受ける子会社的存在であることは変わらないとされた。 現在 SF90ストラダーレ(2019年) に会社創立70周年を迎え、マラネッロ本社とフィオラノや主力市場の日本、イギリス、アメリカ、そしてオーストラリアやシンガポール、香港をはじめとする各国で70周年記念イベントが開催されたほか 、現行生産車種の創立70周年記念バージョンが350台の台数限定で発売された。 7月にマルキオンネ会長が肩の手術を受けたものの、その後容態が急転し死去した。 これを受けてジョン・エルカンが会長に、ルイス・キャリー・カミレッリがCEOに就くことが急遽発表された。 なおモンテゼーモロ時代から15年以上フェラーリエンジンを搭載していたマセラティが、次のモデルよりフェラーリエンジンの搭載を中止することを発表した。 市販車部門やブランドライセンスによる収益は好調なものの、にダブルチャンピオン獲得が期待されたスクーデリア・フェラーリは、という経験豊富な元チャンピオンと、ドライバーアカデミー生え抜きのを抱えているものの、モンテゼーモロ時代の2008年以降、10年以上コンストラクターズチャンピオンが獲得できない状態が続いている。 車種一覧 [ ] 「テーラーメイド」プログラムで仕上げられた70年記念仕様のF12ベルリネッタ さらに「スクーデリア」、「クラシカ」、「インエディタ」の3つのスタイルを基本とし、「カロッツェリア・ スカリエッティ・プログラム」によって用意された内外装の仕様以外の好みのものを自由に選ぶことができる「テーラーメイド・プログラム」がより導入された。 なおこのプログラムは、の孫で元フィアットの国際マーケティング部長のが主導し導入された。 通常のオプションでは用意されていないような織りや織りの生地にした内装や、時代のスクーデリア・フェラーリのF1マシンからインスピレーションを受けた内外装など、まさに自分の意のままの内外装に仕立て上げることができる。 なお導入以降人気が高いため、1ディーラー当たり年間3件以内の扱いしか出来ない上、顧客は原則的にイタリア本社のテーラーメイド・プログラムの本拠地を訪問しないといけないという規定がある。 限定生産モデル [ ] SAアペルタ(2010年) 2000年代以降に生産台数が年間数千台になってからも、「550バルケッタ・ピニンファリーナ」(2000年)や「575スーパーアメリカ」(2004年)、「スクーデリア・スパイダー16M」(2010年)、「」(2010年)や「SAアペルタ」(2010年)、「F60アメリカ」(2014年)や「セルジオ」(2014年)、「458スペチアーレ・アペルタ」(2014年)や「F12TdF」(2015年)、「J50」(2016年)、「488ピスタ・スパイダー」(2019年)など、既存のモデルを元に製作された限定生産モデルを生産している。 これらの限定生産モデルの多くが、既存のモデルの高性能版であったり(「599GTO」や「F12TdF」)、オープンモデル(「550バルケッタ・ピニンファリーナ」や「SAアペルタ」、「488ピスタ・スパイダー」)である。 また「GTO」や「スーパーアメリカ」、「TdF」などの、過去に「名車」と称されたモデルで使用された名称がつけられることが多い。 また発表時に生産台数がアナウンスされた上で、フェラーリ本社と各国の現地法人、もしくは正規ディーラーが選択した、F1クリエンティやXXプログラム、フェラーリ・チャレンジに参加しているオーナーやワンオフモデルのオーナー、または過去に正規ディーラーから限定生産モデルを含む複数台数を購入したことがあるような、身元がはっきりした優良顧客(そして支払い履歴のはっきりした顧客)に対してのみ生産開始前に案内、販売されるケースが多い。 なお過去には日本やアメリカなどの重要市場のみで販売される限定モデル(「J50」や「F60アメリカ」)もあった。 これらの限定モデルは上記のように生産台数がごくごく限られていることもあり、多くの場合、これらの優良顧客への案内と同時にほぼ完売し、一般の顧客に新車の状態で販売されることはない。 なお優良顧客への案内時には、スペックや価格、納期などの詳細のみならず、デザイン画すら提示されないケースも多い。 スペチアーレ [ ] 愛車の「ラ フェラーリ」を見るジェイ・ケイ フェラーリはかねてからFIAの取得を目的に、一から設計された限定生産台数モデルを生産、販売してきたが、1984年にグループB参戦のためのホモロゲーション取得を目的として、「308シリーズ」を元にほぼ一から設計された「288GTO」を開発し、限られた台数を生産し販売した。 その後1987年に創業40周年を記念したモデルとして「F40」が限定生産、販売されたが、翌年のエンツォの死去と世界的な好景気を背景に人気を博したことから、初期に設定していた限定生産数を大幅に超える1,300台を超える台数を生産した。 以降フェラーリはこのような「スペチアーレ」と呼ばれることになる、一から設計された限定生産モデルを節目の年に出すことになり、創業50周年の1997年には「F50」を、創業55周年の2002年には「エンツォ」を、2013年には「ラ フェラーリ」と、それぞれ数年の間をおいて限定生産モデルを発表している。 これらの車種は、限定生産モデルと同様に、「F40」のオーナーとして著名であった世界的歌手の や、フェラーリマニアとして知られる「」のや「」の などの、過去に「スペチアーレ」を正規ディーラーを通じて新車で購入したオーナー(並行輸入や中古での購入者は対象外)やワンオフモデルのオーナー、F1クリエンティやXXプログラムのオーナー、フェラーリ・チャレンジに年間参戦したオーナーをはじめとする、フェラーリ本社と各国の現地法人が特に選択した顧客に対して、1号車の完成より前の段階で案内される。 場合によっては、案内時にスペックやデザイン、価格などの仕様詳細が決定していない上に、限定生産モデルよりも高価にも関わらず、多くの場合、これらの顧客への案内と同時にほぼ完売し、一般の顧客に新車の状態で販売されることはない。 これらの「スペチアーレ」には、その後の生産モデルに採用される新機軸やテクノロジー、デザインモチーフが先取りして用いられることも多く、フェラーリの最新テクノロジーのショーケースとなるのみならず、上記のように世界でも数百人しかいない優良顧客の囲い込みと、それに憧れる数万人の優良顧客候補育成のツールとなっている。 なお日本市場では、「ラ フェラーリ」はフェラーリ・ジャパン(その前の「エンツォ」時代は正規輸入代理・販売店であったコーンズ)が優良顧客の選択と絞り込みを行っていた。 この中でも特に著名なのが、イタリアの有名な映画監督のが、妻でのとともに乗るためにオーダーしたとされる、「375 MM」を元に1954年に注文した「375 MM ピニンファリーナ・ベルリネッタ・スペチアーレ」 や、 同じ年にの帝がオーダーした「375MM『バオ・ダイ』TdF」、1959年にフィアットのジャンニ・アニエッリが注文した「400 スーパーアメリカ・ピニンファリーナ」、などである。 その他にも、やなどのそうそうたる王族や独裁者、大富豪がワンオフを発注し、フェラーリの下でピニンファリーナやトウーリング、ヴィニャーレやボアノなどのボディが載せられ、それぞれが現在でも高い評価を受けている。 しかしフェラーリは、様々な理由からその後ワンオフモデルの受注を受け付けなくなり、このようなモデルの製造はピニンファリーナや、ベルトーネやなどのカロッツェリアが独自に行うようになった(なおその後も、1980年代にフィアットのアニエッリ会長向けに「テスタロッサ」のスパイダー仕様が製作された他、2000年にはアニエッリ会長からモンテゼーモロ会長に向けたプレゼント用に「360スパイダー・バルケッタ」が製作されるなど、経営陣向けにごく少数のワンオフモデルが生産されることはあった )。 2008年以降 [ ] しかしその後約50年を経て、世界的に著名な日本のフェラーリのコレクターで、フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパンの元会長(かつフェラーリ・オーナーズ・クラブ・ジャパンの発起人)での平松潤一郎 の依頼を受けて、モンテゼーモロ会長がワンオフモデルの製作を了承した。 その後制作を開始し、2008年にピニンファリーナのデザイナーであったがデザインしたワンオフモデル「SP1」が完成した。 これが高い評価を受けたため、これ以降フェラーリは、数十年ぶりに自社の手によるワンオフモデルの受注、製作を再開した。 2008年に平松が「SP1」の製作を依頼して以降、までに10台(うち1台は未完成)のワンオフモデルの存在がフェラーリより正式に発表されている。 なおそのうちの2台が世界6大市場の1つである日本人オーナーによる依頼である。 これらのワンオフモデルは、製造の依頼と着手金の支払いを受けてから、フェラーリ本社の担当部署と現地法人の担当者、正規ディーラーの担当者と発注主との間で多くのやり取りがなされるため、完成までに数年がかかる。 価格は非公開で、オーナーの依頼により複数台が製造されることもある(実際に「SP1」も2台が製造されている)。 なお、これらのモデルは完成しオーナーに引き渡される時点で「フェラーリ・クラシケ」の証明書が発行される。 また、転売による価格高騰や、転売先のオーナーによるフェラーリの手を経ない改造を防ぐため、全てのワンオフモデルはフェラーリが買い戻す権利を持つ。 ワンオフモデル一覧(2008年以降) [ ]• これらはフェラーリが自らの手で製作したモデルではないため、フェラーリ公認のワンオフモデルとは厳密に区別されている。 しかし、その多くが歴史的価値から「フェラーリ・クラシケ」のファクトリーで整備され、「フェラーリ・クラシケ」の証明書が発行される対象になっている。 なおこれ以外にも、フェラーリ自らの手で製作されたものの、外部に対して正式に発表されなかった試作車的モデル「ミューロティーポ」が多数存在する。 また、ピニンファリーナや、やなどの外部カロッツェリアが、量産モデルを元に「コンセプトカー」として製作、発表したものは除く。 (1966年)• (1968年)• レインボー(1976年)• 408 4RM(1987年)• モンディアルペースカー(1989年)• エンツォ・プロトタイプ・M3(2000年)• ミレキリ(2007年)• バイオ・フューエル(2008年)• (2010年) フェラーリ・アプルーブド [ ] 導入 [ ] 「スクーデリア・スパイダー16M」。 フェラーリ・アプルーブドの対象となるのは生産から14年以内の車種のみである 2000年代後半に、正規販売代理店と正規サービスセンターのみで発売される、新規登録より14年以内でかつフェラーリ・テクニシャンによる所定の検査と、車輌の履歴とメンテナンス履歴の確認をパスした中古のフェラーリのみが対象となる認定中古車制度「フェラーリ・アプルーブド」が導入された。 また購入より1年間「フェラーリ・マガジン」が無償で送付される。 フェラーリ・クラシケ [ ] レストア [ ] 「F12tdf」(手前)と「458MMスペチアーレ」(奥) 1980年代後半以降にクラシックカーの取引価格が高騰し、コレクターや投資家を騙す目的で製作されたがなどを通じて市場に出回ったことや、コレクターによるレストアサービスに対する需要が高まったことから、2006年に「フェラーリ・クラシケ(Ferrari Classiche)」と呼ばれる、生産開始から20年以上経ったクラシック・フェラーリに対するレストアやメンテナンスサービス、技術的なアシストを行う部署が置かれることになった。 現在は、マラネッロの本社内におかれた本部において、レストアやメンテナンスサービス、技術的なアシストを行う専用のファクトリーが置かれているほか、これまでに生産されたフェラーリについての膨大な資料が保管されている。 なおその桁外れたチューニングのセンスにより、当時エンツォにフェラーリのロゴを使用しないよう訴えられた「ケーニッヒ・テスタロッサ」も、チューニング後30年間を経てエンツォの息子のピエロ率いる認証委員会より認められている。 鑑定書 [ ] 生産開始から20年以上経ったクラシック・フェラーリは、オリジナルの状態が保たれたもの、もしくは純正でない部品を使用していた場合は、純正のものに戻し認証委員会が認証した場合のみフェラーリ・クラシケの鑑定書が発行される。 なお、一般オーナーに向けて販売された中古のF1マシンやXXプログラムのマシンと、「458MMスペチアーレ」などのワンオフや「ラ・フェラーリ」などのスペチアーレ、「F12tdf」や「セルジオ」をはじめとする一部の限定市販車は、オーナーへ引き渡される時点でフェラーリ・クラシケの鑑定書が発行される。 しかし、市販車はフェラーリの手を経ない改造がされた場合に鑑定書が無効に、F1マシンやXXプログラムのマシンは、コルセ・クリエンティ部門を通じたメンテナンスを行なわずに純正でない部品を使用した場合は同じく鑑定書が無効となる。 また、マラネッロに車輌を持ち込めない地域にある場合、正規販売代理店と正規サービスセンターが鑑定の申し込み代理を行う。 日本においても全ての正規販売代理店と正規サービスセンターが鑑定の申し込み代理を行えるほか、東京都の「コーンズ東雲サービスセンター」と大阪府の「コーンズ大阪サービスセンター」に、メンテナンス、修理、及び鑑定書の発行を専門に行うためのトレーニングを受け資格を有したサービス・テクニシャンが駐在する「オフィチーナ・フェラーリ・クラシケ」が設けられている。 モータースポーツ [ ] イタリアのナショナルチーム [ ] 1947年の創業以来、(・)、(・)など様々なカテゴリーに幅広く参戦しており、数多くの勝利を獲得している。 イタリアのの赤がチームカラーとなっているなど、イタリアのナショナルチーム的存在である。 特に、F1世界選手権では1950年の選手権初年度から唯一参戦を続けているチームであり、これまでに史上最多となる16度のコンストラクターズチャンピオンを獲得している。 かつ数少ないエンジンとシャシー両方を製作するコンストラクターであることから、強い発言力を持つとされる。 では1950年代から1960年代にかけて一時代を築き、や、やマセラティと覇権を争ったほか、「ミッレミリア」 や「タルガ・フローリオ」、「ル・マン24時間レース」や「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」などのレースで数多くの優勝を飾っている。 また、ワークス参戦するだけではなく、創業当時からマルゾット兄弟率いる「スクーデリア・マルゾット」やアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵、ブルーノ・ステルツィ伯爵やのようなプライベートでレースに参戦する貴族や大富豪、また「ノースアメリカン・レーシングチーム 」や「シャルル・ポッツィ 」、「エキュリー・フランコルシャン」や「クレパルディ 」、「ベランカアウト」などのディーラーチームにマシンを供給していた。 分割 [ ] なお、フィアットによるフェラーリ買収後の1974年以降は、(スクーデリア・フェラーリ)の活動をF1世界耐久選手権に一本化し、それ以外のカテゴリーは「コルセ・クリエンティ」に一本化され、マシンの開発は「ミケロット」などの社外パートナーの協力を受けて行っている。 FIA 世界耐久選手権やブランパンGT選手権、スーパーGTやスーパー耐久など各選手権への参戦も「」のようなセミワークスチームを通じて、もしくは「RACING WITH FERRARI」のロゴの使用を許可されたプライベートチームへのマシン供給に限っている。 その中にはラリーも含まれ、1981年には「ミケロッティ」と「シャルル・ポッツィ」によりグループ4仕様に改造された「308GTB」が「ツール・ド・フランス・アウトモビル」で優勝し、1982年の「ツール・ド・コルス」では最高位の2位を獲得している。 F1 [ ] F1世界選手権における活動については「」を参照 上記のように、1950年にF1世界選手権が始まって以来、現在も継続して参戦している唯一のコンストラクターである。 現在もエンジンとシャシーの両方を開発、製造する数少ないコンストラクターの1つで、過去16回チャンピオンを獲得しているF1の象徴的存在である。 イタリアのナショナルチーム的存在にも拘らず、エンツォの生前からイタリア人にこだわらずにや、や、、そして現在 [ ]ドライバーを務めるとなどの才能豊かな外国人ドライバーや、や、後藤治やジョン・バーナード、やなどの外国の経験豊かな監督や技術者を積極的に選択することでも知られている。 またより、「」や「」、「」や「アルファロメオ」など、他のチームへのエンジン供給も行っている。 そしてジェントルマンドライバーが中古のF1マシンを所有し走らせる「F1クリエンティ」の各部署を統括している。 コンペティツオーニGT [ ] 個人オーナーが所有するF1マシン FIA 世界耐久選手権やブランパンGT、などで「」などのや「Racing with Ferrari」のロゴの使用が許可されたプライベートチームは「コンペティツオーニGT」がサポートしている。 現在は「488GT3」や「488GTL」などのマシンで戦われており 、これらのマシンの開発と製造については「ミケロット」に社外委託している。 なお、現在は最新型のGTマシンは個人顧客への販売は認められておらず、実績のあるガレージを持つレーシングチーム以外への販売以外は認められていない。 コンペティツオーニGTクラブ [ ] また「コンペティツオーニGTクラブ」は、「348GT」以降の中古のフェラーリのGTマシンを持つジェントルマンドライバー向けに、ムジェッロやなど各国で公認の走行イベントを開いている。 フェラーリ・チャレンジ [ ] ジェントルマンドライバーによるワンメイクレース「フェラーリ・チャレンジ」を、ヨーロッパとアジア太平洋、北アメリカとイギリスの各地域で開催している。 2020年は「488チャレンジEVO」で開催されており、同選手権のマシンの開発と製造については「ミケロット」に、メカニックのサポートは「AFコルセ」に社外委託している。 XXプログラム [ ] 「599XX」や「FXX」、「FXX K Evo」などの、最新技術が搭載されたサーキット専用車で個人オーナーがサーキットを走行することで、今後の車輌開発に役立てるデータ収集を行っている。 なお、各マシン30台程度が限られたオーナーに販売されており、マネージメント及びオーナーへのサポート、マシンの販売及び管理は全て「XXプログラム」が行っている。 なおマシンの管理上、すべてのマシンの譲渡には全て「XXプログラム」が関わることになっている。 F1クリエンティ [ ] 中古のスクーデリア・フェラーリのF1マシンと「333SP」を所有する個人オーナーへのマネージメント及びオーナーへのサポート、マシンの販売及び管理を、GES部門と協力して行う「F1クリエンティ」 がある。 なお、各国の正規販売代理店で販売された市販車のオーナーで、かつフェラーリと正規販売代理店に承認された顧客に限り、フェラーリまたは各国の拠点を通じて中古のF1マシンを購入することが可能である。 また、2014年シーズン以降のF1マシンについては、「」システムの管理上の問題により中古の販売を中止することが決定された。 なお、に数えられるへは、1952年に1度挑戦したのみで優勝はない。 :16回(、、、、、、、、、、、、、、、 )• 総合優勝:7回(1953年、1954年、1956年、1957年、1958年、1961年、1972年)• GTクラス:3回(1962年、1963年、1964年)• プロトタイプクラス:4回(1963年、1964,1965,1967年)• :1回(2001年)• GTクラス:1回(2012年)• WSC:2回(1995年、1998年)• :1回(2017年 )• :8勝(、、、、、、、 )• :5勝(1963年、1964年、1967年、1972年、1998年)• :12勝(1956年、1958年、1959年、1961年、1962年、1963年、1964年、1970年、1972年、1995年、1997年、1998年)• :8勝(1948年、1949年、1950年、1951年、1952年、1953年、1956年、1957年 )• :7勝(1948年、1949年、1958年、1961年、1962年、1965年、1972年)• :2勝(1951年、1954年)• 世界規模で活動する裕福なオーナーが多いことから、これらはオーナーが購入または在住している国だけでなく、世界各国で享受、体験できるものが多いことが特徴である。 さらに、「フェラーリレーシングデイズ」などのサーキットイベントやツーリングイベント、パーティーなどの、正規販売代理店と正規サービスセンターが開催しているオーナーを対象としたイベントも多数ある。 フェラーリ・コンシェルジュ 日本やイタリア、イギリスやアメリカなどの主要市場に設置しているオーナー向けのサービス窓口。 オーナーに提供する下記の各種サービスの利用や問い合わせ、イベントへの参加や問い合わせを無料で受け付ける。 他にも、オーナー限定のマラネッロの本社工場見学ツアー「ファクトリー・ツアー」や、本社に隣接した博物館「ムゼオ・フェラーリ」見学、「フェラーリF1クラブ」のパドックパスや「」のオーナー向け入場券の手配も行っている。 また、オーナー以外による各種問い合わせの窓口ともなっている。 フェラーリ・ロードサイド・アシスタンス 日本を含む主要市場に設置している24時間対応のフェラーリ専用のロードサイド・アシスタンス・サービス。 路上や自宅などにおけるバッテリー上がりや故障などの対応を行う。 正規販売代理店で販売された車両のみがこのサービスを受けることが出来る。 フェラーリ・ファイナンシャル・サービス 正規販売代理店で発売される新車及び認定中古車、フェラーリ純正パーツやアクセサリーを購入する際に、リースやローンサービス、などを提供している。 各国でサービス内容は異なる。 フェラーリ・レーシング・デイズ フェラーリの主催により世界各国のサーキットで開催されるオーナー向けの祭典。 やF1クリエンティ、XXプログラムの走行、スクーデリア・フェラーリのドライバーや元ドライバーによるF1マシンの走行、市販車のオーナーによるサーキット走行体験などのイベントが行われる。 日本でも隔年に1回国内のサーキットで開催される。 参加はフェラーリ各車種とそのオーナーに限られるが、オーナー以外による観覧も可能である。 これらのイベントを総括するものとして、年末に「フィナーリ・モンディアーリ」が開催される。 フィナーリ・モンディアーリ 毎年末にイタリアやなどのサーキットで開催されるフェラーリ最大のモータースポーツイベント。 世界各国から関係者や重要顧客、オーナーやファンが集まり、フェラーリ・チャレンジの各シリーズの最終戦及び世界一決定戦が行われるほか、F1クリエンティとXXプログラム、クラブ・コンペティツオーネの走行、スクーデリア・フェラーリのドライバーや元ドライバーによる最新のF1マシンの走行などが行われ、フェラーリ・チャレンジの年間表彰式を兼ねたガラ・ディナーや、F1クリエンティとXXプログラムのオーナー向けのガラ・ディナーも開催される。 また、F1クリエンティとXXプログラム、フェラーリ・チャレンジのドライバーという、フェラーリにとっての最重要顧客が世界各国から集まることから、会場でサーキット専用車種やレーシングカーなどの新型車の発表が行われることが恒例となっている。 フェラーリ・カヴァルケイド イタリアやヨーロッパ各地、日本やアメリカなどの名所やフェラーリにまつわる場所を、自分のフェラーリを世界各国から持ち込んだ数十人から百数十人の重要顧客たちが数日をかけて走るイベント。 年間数回世界各地で開催され 、遠方から訪れたオーナーは現地に用意された車輌を使用しての参加も可能である。 なお、参加台数が限られていることもあり、参加者はフェラーリおよび現地法人、正規ディーラーにより招待を受けた者のうち、参加を承諾したもののみとなっている。 フェラーリ・トリビュート・ミッレミリア 毎年イタリアで開催される「復刻版ミッレミリア」のサポートイベントとして開催され、「カヴァルケイド」と同様に自分のフェラーリを世界各国から持ち込んだ数十人の重要顧客たちが、復刻版ミッレミリアと同じコース(とフェラーリにまつわる名所)を走るイベント。 日本などの遠方から訪れたオーナーは、現地に用意された車輌を使用しての参加も可能である。 なお、参加台数が限られていることもあり、参加者はフェラーリおよび現地法人により招待を受けた者のうち、参加を承諾したもののみとなっている。 ピロタ・フェラーリ フェラーリのオーナー向けに、プロのレーシングドライバーを講師として招いて開催されるドライビングスクール。 初級者向けからフェラーリ・チャレンジ経験者向けまで4つのクラスが用意されており、年数回イタリア(など)や日本、アメリカや中華人民共和国のサーキットで開催され 、フェラーリ・コンシェルジュや正規販売代理店、正規サービスセンターを通じて申し込むことができる。 ファクトリー・ツアー オーナーとその同伴者限定で提供されているマラネッロの本社工場見学ツアー(有償)。 本社工場のラインやコルセ・クリエンティ、フェラーリ・クラシケの本部などをガイド付きで見ることができる。 イタリア語と英語のほか、日本語のガイドも用意されている。 フェラーリ・コンシェルジュ や正規販売代理店、正規サービスセンターを通じて申し込むことができる。 なお、工場内に入ることから、16歳以下は安全上の観点から参加できない。 2014年12月にはアブダビで開催された「フィナーリ・モンディアーリ」のガラ・ディナー・パーティーが全館貸し切りで開催された。 また、スペインのバルセロナ郊外のにも、「フェラーリ・ランド」が2017年4月にオープンした。 なお、フェラーリのオーナー向けの割引入場券も用意されており、フェラーリ・コンシェルジュを通じて申し込むことができる。 フェラーリF1クラブ や、・グランプリをはじめとする世界選手権各戦における「」のフェラーリ・シャレーや各スポンサーのシャレーでの観戦パスをオーナー限定で提供しており、フェラーリ・コンシェルジュ を通じて申し込むことができる。 なお、購入者には特製のお土産も用意される。 フェラーリ・マガジン フェラーリが発行しているオーナー向け雑誌。 新車を正規販売代理店で購入したオーナーへの「コンタクト・プラン」の特典の一部として、注文後2年間、認定中古車を購入したオーナーに1年間無償で送付される。 また、それ以降も有償で定期購読が可能な他、オーナー以外でも有償で定期購読が可能である。 「」により編集されており、イタリア語と英語の併記版のみが用意されているが、2016年のリニューアル以降はのオンライン版も用意されている。 公認オーナーズクラブ イタリアや日本、イギリスやなどの主要市場のみならず、香港や、や、や、など、世界各国にフェラーリが正式に公認しているオーナーズクラブが設けられている。 これらの公認オーナーズクラブは1国1クラブが原則であり、フェラーリからは独立して運営されているが、フェラーリのエンブレムの使用の権利が与えられ、さらにイベントやパーティー、サーキット走行などの様々な活動にはフェラーリ及び現地法人、正規ディーラーが全面的に協力しており、また1年に1回フェラーリの協力を受け、全クラブの総会が開かれている。 また、各国の公認オーナーズクラブ同士の交流も活発に行っている。 日本のオーナーズクラブは30年以上の歴史があるが、以降は「フェラーリ・オーナーズ・クラブ・ジャパン(Ferrari Owners' Club Japan) 」と「フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパン(Ferrari Club of Japan) 」の2つの公認オーナーズクラブに分裂し、それぞれ数百人の会員がいた。 しかしながら、より再び両クラブが統合することが発表された。 ブランド [ ] カヴァッリーノ・ランパンテ [ ] 599XX Evoのフェンダーにつけられた盾形の紋章 後足で立ち上がった馬の図柄を使用するため「 跳ね馬」の愛称を持つ。 この紋章はイタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ」( Cavallino Rampante )といい、「Rampante」は紋章用語で「気負い立ち」を意味するため、直訳では「気負い立ち馬」であるが、英訳では「(後肢で前へと)跳ねる馬」( Prancing Horse )となっている。 紋章の形状は長方形と盾形の2種類があり、この2種類は下記の様に用途によって明確に使い分けられている。 いずれも上部にはと同じ三色(緑白赤)のラインが入っている。 なお2種類ともに各国で商標として登録されており、フェラーリおよび正規ディーラーと正規サービスセンター、フェラーリとライセンス契約を結んだ商品のみで使用できる。 長方形のものは、フェラーリの公式なとして社員のや社用、公式文書や工場で働く工員の作業着、社用車などで使用されているほか、市販車や「フェラーリ・ストア」、正規ディーラーや正規サービスセンターなどでも使用されている。 盾型(スクデット)のものは、元々はから1930年代にかけてスクーデリア・フェラーリがアルファロメオで参戦していた際に使用されたもので、下部に「スクーデリア・フェラーリ」のイニシャルである「S」と「F」が入っている。 その後スクーデリア・フェラーリとアルファロメオが袂を別ってから使用されていなかったが、フェラーリ設立後のに、モータースポーツに参戦するために製造された車輌と、増え続ける市販車を明確に区別するために再び導入された。 この様に、盾形は本来はフェラーリの元でモータースポーツに関わっていることを示すもので、F1とGTレース、フェラーリ・チャレンジ、F1クリエンティとXXプログラムに参加しているマシンと支援車輌、そしてモータースポーツに携わるゲスティオーネ・スポルティーバ部門 とコルセ・クリエンティ部門 、両部門に関連した業務に携わる各部門のフェラーリ社員と、承認を受けたGTなどのプライベートチームや正規ディーラー、正規サービスセンターのエンジニアやメカニックなどの外部スタッフ、そしてこれらに参戦するドライバーや関係者に対して配布されたアイテムのみで使用できるものである。 しかし現在は、市販モデルのオーナーやファンのみならず、マスコミなどが長方形の紋章と混同して使用しているケースが多いだけでなく、フェラーリの市販モデルのフェンダー部に盾形の紋章が正規オプションとして用意されている他、一般向けに販売されているレプリカウェアや各種グッズにも盾形の紋章が使われているなど、本来の用途とは異なるかたちで使われることも多い。 の前に立つバラッカ(1916年) 本来この紋章は、時にのエースだったが、自身の搭乗するに付けていた。 その由来には複数の説がある。 元々はバラッカが空軍に移る前に所属していた、第11山岳騎兵連隊の紋章であった。 その後バラッカは空軍に移り、第91a飛行隊に所属。 それに伴い、この紋章も部隊のエンブレムとなっていた。 バラッカが機を撃墜した際、その機体にはパイロットの出身地市の紋章である跳ね馬が描かれており、バラッカと彼が所属する第91a飛行隊はそのアイデアを頂戴した。 1923年、のドライバーだったエンツォ・フェラーリは、で行われたチルキット・デル・サヴィオで優勝した。 このレースを観戦していたパオリーナ夫人(バラッカの母親)はエンツォに亡き息子のシンボルであった跳ね馬の紋章を使うよう勧めた。 第91a飛行隊にエンツォの兄アルフレードが所属していた縁もあり、エンツォもこの申し出を受け入れた。 ただし、研究家によっては「英雄の母親とはいえ息子の部隊章の使用許可を与える権限はなく、この話はエンツォの創作ではないか」と考察している。 1932年、に出場したスクーデリア・フェラーリのマシン(アルファロメオ製)に初めて跳ね馬の紋章が付けられた。 フェラーリと共に高スポーツカーの代名詞とされるの社章にも跳ね馬があしらわれているが、これはポルシェの本社があるシュトゥットガルト市とそれを含むの紋章を組み合わせたものであり、偶然ではあるが両社はエンブレムの由来でつながりを持つ。 コーポレートカラー [ ] 「ジャッロ・モデーナ」塗装が施された フェラーリの「イメージカラー」としては赤(ロッソ)が非常に有名であり、「赤がコーポレートカラーである」というイメージが浸透しているが、この色はそれ以前にモータースポーツにおけるイタリアのであり、アルファロメオやチシタリア、など他のイタリアの自動車会社やレーシングチームでも使用されている。 本来のフェラーリのコーポレートカラーは会社があるのカラー「黄色(ジャッロ)」であり、フェラーリの黄色い外板色の名前は「ジャッロ・モデーナ」とされている。 また「跳ね馬」の社章の背後にもコーポレートカラーがあしらわれているが、これはシュトゥットガルト市の紋章の背景が黄色だったため(ただしポルシェのエンブレムは金色)。 現在では「ロッソ・スクーデリア」や「ロッソ・コルサ」、「ロッソ・フィオラノ」や「ロッソ・フオッコ」など数パターンの赤系の色が用意されている。 また暗黙のうちにコーポレートカラーに含まれているので、量産車の新車発表時には、車種によっては赤色と黄色の車両も用意するように配慮されている。 ブランド展開 [ ] ブランド維持への取り組み [ ] フェラーリ公式のワイヤレススピーカー イギリスのブランド価値調査機関である「ブランド・ファイナンス」がまとめた報告では、「」や「」などを抑えて2013年の「世界で最もパワーのあるブランド」に選ばれた。 なお、F1やWECなどのモータースポーツに直結した高性能スポーツカー専業メーカーとしてのブランドイメージを重視しており、ポルシェやランボルギーニなどの量販スポーツカーメーカーがこぞって参入しているものの、やエンジン不要の EV には参入しない方針を示している。 2012年には同社にとって過去最高の営業利益と販売台数を記録したが 、エンツォ・フェラーリ時代よりモンテゼーモロ時代に至るまで伝統的に維持してきた、オーナーに対する「飢餓感」を維持するために恣意的に生産台数を抑えており、2013年にはあえて生産台数を7000台以下に抑えると発表した。 ブランドビジネス [ ] 世界的に高い知名度とブランドイメージを活かして、各種企業と契約を結び、自動車関連製品から装飾品、衣類、、、、、インテリア、さらにはに至るまで様々なフェラーリ公式グッズの販売が行われている。 また、や、アブダビや、などにある「フェラーリ・ストア(Ferrari Store)」の店舗や公式ウェブサイト内で、フェラーリの公式グッズやミニチュアカー、衣類や純正パーツなどを利用した装飾品の販売を行っている。 「フェラーリ・ランド」 自動車メーカーではの取り組みが早く、1999年にがフェラーリと商品化権を独占的に使用する締結を結び、これ以降他社はフェラーリのを基本的に生産、販売できなくなった。 なお、2015年以降はマテルに代わり「ブラーゴ」や「マイスト」ブランドを傘下に持つ香港のメイ・チョングループと契約を締結しており、メイ・チョングループのライセンスの元、他ブランドでの発売も再開されるようになった。 現在は海賊品の取り締まりのみならず、並行輸入業者などによるエンブレムやブランドロゴの不正使用の取り締まりを、世界各地の担当者による調査を通じて日常的に行っている。 テーマパーク [ ] 2009年11月には、のにフェラーリのテーマパーク「」が開園した。 同パーク内には、世界最高速を誇るやドライビング、フェラーリ本社前にあるレストラン「カヴァリーノ」の初の支店などがある。 また2017年には、スペインにも「フェラーリ・ランド」がオープンした。 日本におけるフェラーリ [ ] フェラーリジャパン株式会社 Ferrari Japan K. 市場情報 非上場 略称 FJ 本社所在地 港区6-10-1 六本木ヒルズ森タワー37階 設立 事業内容 の輸入及び卸販売 代表者 エンリコ・ガリエラ 従業員数 約15人 主要株主 フェラーリ 関係する人物 (元社長) エドウィン・フェネック(元社長) ハーバート・アプルロス(元社長) 小木曽貴一(元セールス・ディレクター) 外部リンク 世界6大市場の一角 設立からわずか10年足らずの1950年代後半に、裕福な自動車マニアの手で初めて輸入されるなど 、欧米以外では比較的歴史が長い上に販売台数が多く、また「」のや平松潤一郎などの世界的に著名なコレクターや、ワンオフやフェラーリ・クラシケ、F1やXXプログラム、GTコンペティッォーネやフェラーリ・チャレンジなどのコルセ・クリエンティの重要顧客が多い日本は、母国のイタリアや、伝統的に販売台数が多いイギリスやアメリカ、ドイツと並び、フェラーリの極めて重要な最重要市場である「世界6大市場」の1つとされている。 さらにサービスのレベルも高い評価を受けており、に本拠を置く正規ディーラーの「」が、1月にのフェラーリ本社内で行われた世界のフェラーリディーラーの年次総会で、度のセールス、アフターサービス、マーケティング、コルセ・クリエンティの活動を総合的に評価され、全世界186のフェラーリ正規ディーラーの頂点である「グローバル・トップ・ディーラー・オブ・ザ・イヤー」を獲得した。 設立-1965年 創立から1965年までは、日本国内にフェラーリと契約を結んだ正規輸入及び販売代理店は存在しておらず、また日本国内での知名度もほとんど無かった事もあり、日本への輸入台数も裕福な自動車マニアや在日外国人による個人輸入という形でごく少量に留まっていた。 なお初めて日本にフェラーリが輸入されたのは上記の様に1950年代後半で、裕福な自動車マニアによる個人輸入であった。 フェラーリ・275GTB 1965年に「新東洋企業」がフェラーリ本社との契約を結び、初の正規輸入及び販売代理店となった。 なお、日本で初めて正規輸入車として登録されたフェラーリは、同社により1966年に登録された「」である。 当時はをはじめとする車好きの富裕層しか知らない、また年間数台しか売れないきわめて高価なものであった。 その後1968年から1972年までは「」、1971年から1974年までは「」、1975年から1978年までは「」、1976年から2008年(1976年から1978年までは、ロナルド・ホーア率いるイギリスの「マラネロ・コンセッショネアーズ」の支店を経由した並行輸入扱い )までは「コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド」が、フェラーリの正規輸入及び販売代理店として、輸入と販売、整備とマーケティング業務を担当していた。 またの日本GPにおいて、コーンズのロゴがF1マシンに貼られていたこともあった。 しかしこれらの企業は、資金力や販売戦略の観点からショールームやサービスセンターを全国に展開することができない上に、あくまで一輸入販売代理店でしかないために、フェラーリ本社への発言権や影響力が少ないことなどから割り当て台数も少ない(その上に後半の時期には、「テスタロッサ」などの売れ筋のモデルや限定モデルに、「モンディアル」や「412i」などの売れ行きが悪いモデルを抱き合わせられる始末であった)ため、並行輸入車が年間輸入量の半数以上を占めることも多数あった。 に展示されたフェラーリ・F430スクーデリア 2007年 さらに、ブーム直前の1976年から2008年にかけて輸入販売を行っていた「コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッド」は、受入態勢不足などの理由で当時日本へ輸入されたフェラーリの多くを占めていた並行輸入車の整備を受け付けていなかったことから 、11月のモンテゼーモロの社長就任以降、全世界規模で正規販売代理店の展開を拡大すると同時に、正規サービスセンターの展開を拡大することで、既存オーナーへのアフターサービスの充実を図っていたフェラーリの最重要市場戦略と齟齬をきたすようになっていた。 また1980年代のバブル景気以降、日本市場が販売台数的にもフェラーリにとってイタリアや、、と並ぶ主要市場として重要な存在となったこともあり、フェラーリの最重要市場戦略を直接反映できる本社直轄法人の設立が急務とされ、2000年代に入ると本格的な検討が始まった。 初の日本法人-フェラーリ・ジャパン設立 その後2008年2月には、フェラーリ本社直轄の日本法人の設立を発表 するとともに設立準備室が設けられ、同年7月1日から港区に本拠を置くフェラーリ本社直轄の日本法人である「フェラーリ・ジャパン」が設立された。 現在はフェラーリ・ジャパンが「北東アジア地域本部」として日本と、新興市場である韓国市場を統括している。 なお、フェラーリが直系の子会社を置くのは、イギリスとアメリカなどに次いで稀なことであった。 設立以降は、フェラーリの全世界戦略の元に、同社が日本国内における車両に関するマーケティングやセールス、テクニカルなフィードバック、車輌の輸入及び型式証明の取得、正規販売代理店や正規サービスセンターに対する車輌やパーツの卸販売、アフターサポートのほかにも、F1や「フェラーリ・チャレンジ」、「XXプログラム」などのモータースポーツ活動に関する支援や販売活動、イベントの主催やパートナー企業との提携などのマーケティング及び広報業務、公式やの運営など幅広い業務を行っている。 なお過去には、の運営や並行輸入業者などによるブランドの不正使用の調査、登録商標の調査と登録、の管理等も行っていたが、社員が退職したことをきっかけに現在は本社が行っている。 PDIとフェラーリ・アカデミー 被災者支援のためにフェラーリ・ジャパンの協力で作られ、「」のフロントウィングにつけられた「ガンバレ! 日本」のメッセージ に、輸入後の車検取得と納車前整備を行うPDIセンターを設けたほか、アフターサービスの充実の一環として、正規サービスセンターのの技術教育を目的とした施設「フェラーリ・アカデミー」も設けている。 なおフェラーリ・ジャパン設立以降、アプルロス社長とセールス、マーケティング、テクニカルの各チームの努力により、2010年から2014年ころまで一時的に新型モデルの日本市場への導入が飛躍的に速くなった。 チャリティ 2011年3月におきたの被災者を支援するために、直後に開催されたでは、社員達により急きょ作られたと「ガンバレ! 正規ディーラーとサービスセンター ロッソ・スクーデリアのショールーム() さらなる拡販とアフターサービスの充実を積極的に行い、これまでフェラーリと直接契約を結ぶ正規販売代理店がなかったやに正規販売代理店を開設、や、に整備と正規パーツの販売と認定中古車の販売を行う正規サービスセンターを開設するほか、これまでは1か所しか正規販売代理店や正規サービスセンターが存在していなかった東京都や、や内にも新たな正規販売代理店や正規サービスセンターを開設するなど、ネ ットワークを全国に広げている。 フェラーリ・ジャパンと正規販売代理店契約を結んだ元正規代理店の「コーンズ・モーター」(、、)をはじめ、日本初のフェラーリ専売デイーラーの「ロッソ・スクーデリア」(東京都)、「」()、「オート・カヴァリーノ」()、「エムオート・イタリア」()、「ヨーロピアン・バージョン」( )、「・サッポロ」()の7社9拠点が正規販売代理店となっており、新車の販売や認定中古車の販売、整備や正規パーツの販売、「フェラーリ・クラシケ」の承認受付 、「フェラーリ・チャレンジ「」への参加受付や各種サポートなどを行なっている。 また、これらの正規販売代理店に併せて、「」()、「グランテスタ」(、)、「オート・スペチアーレ」 ()が正規サービスセンターの指定を受けており、認定中古車の販売 や整備と正規パーツの販売、「フェラーリ・クラシケ」の受付や「フェラーリ・チャレンジ」などのモータースポーツへの参加受付や各種サポートも行っている。 これらの正規販売代理店と正規サービスセンターにおいては、フェラーリの正式認証を受けたもとで、これまでに正規輸入されたフェラーリのみならず、並行輸入された全てのフェラーリへの修理や整備(不法改造車や対応不可の改造、フェラーリ・チャレンジを一般道走行対応にした車輛などの不正改造は除く)、正規パーツの販売も受け付けている。 その他 [ ] 落札された「250GT SWB」• 1980年代後半から1990年代前半にかけて、イタリア高級ボートメーカー「リーヴァ」とのコラボレーションで、高性能エンジンを搭載し深紅に塗装されたボート「リーヴァ・フェラーリ32」が製造された。 その後このようなコラボレーションは行われていないが、「・グループ」傘下となった「リーヴァ」 は、2015年以降スクーデリア・フェラーリの公式スポンサーとなっている。 11月に、フェラーリ・ジャパンが「」との提携を開始し、日本国内の正規販売代理店で新車もしくは認定中古車、純正パーツを購入した際の決済にダイナースクラブのカードを使用した場合、ダイナースクラブのポイントが2倍付与されるというキャンペーンを行った(現在は終了)。 また正規販売代理店で購入したオーナーで、の入会を希望する者には、通常インビテーション制のプレミアムカードの入会案内が渡されるキャンペーンや、ダイナースクラブの会員をフェラーリ・ジャパン主催のイベントに招待するキャンペーンを行っていた。 なおこの提携関係は、その後マセラティ・ジャパンに引き継がれている。 日本にはフェラーリ公認のオーナーズクラブ以外にも、「ディーノ・クラブ・ジャパン」 や「Ferrari 308 Owners Club」 などのモデル別の非公認オーナーズクラブが存在する。 毎年フランスで行われているクラシックカーイベント「サロン・レトロモービル 2015」で、フランスののが1963年から1965年まで所有していた「250GT SWB カリフォルニア・スパイダー」が、レトロモービル史上最高値の約21億円で落札された。 なおこの車は、長年整備を受けないままに、フランス国内の大富豪の屋根付きの駐車場に放置されていたものであった。 2018年8月27日、「フェラーリ 250 GTO」が約54億円で落札され、オークション史上最高額を更新した。 出典 [ ] []• carview• 「ラ・ミア・マッキナ」内田盾男著 二玄社 P. 157• Museo Casa Enzo Ferrari. 2013年2月13日閲覧。 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P225• 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P201• 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P201• 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P201• 「ラ・ミア・マッキナ」内田盾男著 二玄社 P. 158• 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P227• 「Octane」P. 24 2019年冬号 世界文化社• 『ワールド・カー・ガイド DX08 フェラーリ』 ネコ・パブリッシング、2006年、p. 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 「Autosport」2002年2月12日号P. 「ああ、人生グランドツーリング」徳大寺有恒著 二玄社刊 P. 146• 『クルマの女王・フェラーリが見たニッポン』清水草一著、刊 2006年• 『クルマの女王・フェラーリが見たニッポン』清水草一著、刊 2006年• 『幻のスーパーカー』福野礼一郎著、双葉社、1998年、P20• 「Octane」P. 55 2019年冬号 世界文化社• 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 「Scuderia」2017 Winter P. 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 『SCUDERIA』 Vol. 112 2016年 2月号 P. 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 「High Life」著 P. 214• 「Scuderia」2017 Winter P. ただし各輸入代理店や正規ディーラーによる広告は許可されている• 「カーグラフィック」2019年9月号 P. 138• 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P232• 「フェラーリ赤い帝国」ジョー-ホンダ KKベストセラーズ P210• 「カーグラフィック」2019年9月号 P. 139• 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P232• 「カーグラフィック」2019年9月号 P. 215• 「ハイ・ライフ」著、井上一馬訳 P. 135• 「フェラーリ赤い帝国」ジョー-ホンダ KKベストセラーズ P213• 「フェラーリの70年」CCCカーライフラボ P210• 「ラ・ミア・マッキナ」内田盾男著 二玄社 P. 115• 27-154「ルマン24時間レースの歴史」、ドキュメンタリー番組「24時間の戦争」におけるエドセル・フォード2世の証言• 「ハイ・ライフ」著、井上一馬訳 P. 132• 「24時間の戦争」における本人の証言• 「フェラーリ赤い帝国」ジョー-ホンダ KKベストセラーズ P338• 「ハイ・ライフ」著、井上一馬訳 P. 135• 251• 「徳大寺有恒からの伝言」徳大寺有恒著 刊 P. 「ハイ・ライフ」著、井上一馬訳 P. 135• Wikipediaイタリア語版「Le Mans 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"BB"はベルリネッタ・ボクサーの略であり、フェラーリは180度V12エンジンをと呼称した• 「自動車アーカイヴ Vol. 13」二玄社刊 P. 「自動車アーカイヴ Vol. 13」二玄社刊 P. 「自動車アーカイヴ Vol. 8」二玄社刊 P. 「自動車アーカイヴ Vol. 8」二玄社刊 P. ランチア・テーマ8・32の「32」は3. 2Lではなく、32バルブの意である• 「自動車アーカイヴ Vol. 8」二玄社刊 P. 「自動車アーカイヴ Vol. 8」二玄社刊 P. 「Autosport」1982年1月15日号P. 「Scuderia」2017 Winter P. 「Scuderia」2017 Winter P. 「Scuderia」2017 Winter P. 「ラ・ミア・マッキナ」内田盾男著 二玄社 P. 164• 『クルマの女王・フェラーリが見たニッポン』清水草一著、刊 2006年• 「Racing On」 2007年1月号 ニューズ出版 p. 「オートスポーツ」1990年12月15日号P. 『クルマの女王・フェラーリが見たニッポン』清水草一著、刊 2006年• 「The Rake」2016年5月 P. 59 美松堂• 「自動車アーカイヴ Vol. 8」二玄社刊 P. - レスポンス(2008年2月22日)• 「Ferrari FF」日本語版カタログ• 「Ferrari F12 Berlinetta」カタログ• 2012年「Ferrari」ディーラー向け全モデルカタログ(日本語版)• 「SCUDERIA」 Vol. 109 2015年5月号 P. 「SCUDERIA」Vol. 109 2014年11月号 P. 「THE RAKE」2016年5月 美松堂 P. 「SCUDERIA」 Vol. 109 2014年11月号 P. 「SCUDERIA」Vol. 109 2014年11月号 P. 2015年10月22日. 2015年10月23日閲覧。 これは結局2019年に撤回された• carview• 「Scuderia」2017 Winter P. 「Autosport」2018年9月28日号• 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 『クルマの女王・フェラーリが見たニッポン』清水草一著、刊 2006年• 「カーセンサーエッジ」2016年1月号付録『アモーレフェラーリ』P. 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