飛び降り自殺 楽。 本気で自殺を考えてる人が検索でこのページを見たらどう思うのだろう

飛び降り自殺を決意するまでの、私の半生。

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歩行不能の重度身体障害から先生のある言葉で歩けた あなたたちの中で自殺行為したことある人っていますか?例えば手首を切ったり練炭自殺未遂をしてみたり… 私の場合は 飛び降り自殺行為をしました。 滅多に自殺行為なんてしませんよね。 私の場合母がまず先に自殺し、それを追いかけるように跡を追ったのです。 母が自殺したのは私が横浜国立大学3年生の春のことでした。 急な連絡が親戚から入り、霊安室に入ったった時には、愕然としました。 母の死体はばらばらになっており、顔はほぼ半分ぐらいしかのこっていませんでした。 何故なら特急列車に飛び込んで自殺してしまったからです。 母が大好きだった私は、その最期のわかれの姿が忘れられず、毎日脳裏にフラッシュバックしては、母がいない世界がひどくむなしく、大学も辞めてしまい、実家で鬱々とした気持ちで、営業職に就きました。 毎日が虚しくて母が恋しくて、生きているのが辛すぎ、上司の命令にも平常心で答えられず、会社でもただただ機械的に動くだけで心ここにあらずという状態で、社内で虐められる対象でした。 徐々に 高いビルを見ては「あそこから飛び降りたら、ぐしゃっと死ねるな」などと毎日考えるようになりました。 そのことが父にばれ、精神病院という施設にたらいまわしされる廃人となり、自責の念はさらにましていきました。 「なんでこんな施設にお世話になる廃人になってしまったんだろうか。 母が恋しい」など刑務所のような鉄柵のある施設で毎日毎日死ぬことだけを考えるだけの廃人に成り下がりました。 自殺願望は消えないままに、とうとう自殺できそうな死に場所を求め、飛び降りれそうなビル探しに明け暮れていました。 「こんなに苦しい人生を早く終わらせて天国の母のもとに行きたい」 適当なマンションのビルを探し、一気に最上階の4階まで駆け上がり、私は何のためらいもなくそのテラスの、壁に立つと同時に、ほんの数秒の恐怖を振り払いジャンプしました。 下は固いコンクリートでした。 意識不明の重体となり、ドクターヘリで脊髄損傷センターという特殊な九州一の外科総合病院に担ぎ込まれました。 数日もの手術を受け一命をとりとめましたが、第三第四腰椎破裂骨折、はみ出たかかとの骨も摘出手術を受け両脚は複雑骨折という状態でしたから1週間ほど意識はもどりませんでした。 手術を担当した医師から「あなた なぜ自殺行為など考えたんですか。 そんなことして天国のお母さんが悲しむだけですよ。 自分の子供が自殺して喜ぶ親なんて、この世にも、あの世にもいないですよ」 と言われ、私は先生の言葉で涙が止まりませんでした。 私に下りた診断は「下半身は障害で歩くことはできないだろうという重度身体障害2級、ない腰椎は金属でブリッチで繋ぎ、麻痺の残る部分は長いリハビリによって回復を待ちましょう」とのことでした。 複雑骨折やかかとの骨が無い状態での歩行リハビリはできず、ベットの上でのリハビリが続きました。 先生の「君は一度死ぬという最悪な行為を選んだんだから、死ぬ気で歩ける努力して天国の母親に親孝行していこうね」という言葉は15年以上経った今でも毎朝思い出します。 何でも死ぬ気で歩けるために努力して裏切らない様に生きてきました。 歩けないゆえに太り続けた体重も、死ぬ気で断食40キロダイエットして、腰や足への負担を軽くしました。 ほとんど断食に近い7か月でしたから、苦しいダイエット中も 先生の「君はこれからの人生なんでも死ぬ気で努力しなさいね」という言葉が励ましとなりました。 最近その努力の甲斐もあり、健常者に見間違えるほどあるけるようになりました。 私は思います。 自殺行為するなんて馬鹿な考えです。 「なんでも死ぬ気で努力しなさいね」 今でも先生のあの言葉 忘れないで生きています。 苦しかった断食の日々のことも。 皆さんも死にたい時も人生ではきっと訪れることもあるでしょう。 そんな時は是非思い出してみてください。 自分から命を絶つという行為は最低の行為です。 先生の言った通り、何でも死ぬ気で努力していけばかなわないことなどないのだから。 私も一度命を粗末にし、歩けなくなりましたが、あるけるようになって、そう願います。 何でも死ぬ気でやってみて。

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飛び降り自殺は

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こんにちは、こんばんは。 自殺未遂から背骨をパキッと折って10年、白檀です。 先日、私が飛び降り自殺が未遂に終わり、それでもなんやかんや生きているというお話を投稿しました。 (リンク:) 今日はその前の、「境界性人格障害」と診断され、体には不自由がなかった頃のことを書いてみます。 歩けていた頃…。 タイムマシンがあったらいいのにな。 飛び降りまでの前半生 今は亡き、ひどいアルコール依存症だったけれど大好きな父、親が早くに亡くなり気上に振る舞い続けるけれど愛されたい母、随分と歳の離れた少しシャイな姉、私の子守りをする為に呼ばれた独身の叔母、この家庭に私は生まれました。 2歳にならない位の自分の写真を見ると、私はトコトコと歩き回り、満面の笑みです。 あまりに歩き回るので、母や叔母や父が私の襟首を笑いながら掴もうとしている写真がたくさんあります。 満月のようなまん丸の顔は、イタズラ心と喜びに満ちているように見えます。 その笑顔が消えるまで、それ程の時間はかかりませんでした。 母曰く、当時の我が家は「父を殺すか、母が殺されるか」という状態だったそうです。 母は「私と姉を犯罪者の娘にだけはしたくない」という想いでいっぱいで、父や母と過ごす時間はあまりありませんでした。 父は酒に酔うと本当にめちゃくちゃでした。 私が小学校高学年の頃には、酒を飲んだら死ぬと言われていたようです。 しばらくすると父は酒が飲めなくなり、母は蒸発し、姉は家を出ました。 私はボロボロだけど優しい父と、叔母に育ててもらうことになります。 幼い頃から私は、大人が大嫌いでした。 父の暴力、母の放任、「自分の娘じゃない」と口に出して言う叔母も好きにはなれませんでした。 「こんな大人には絶対にならない」と、毎日誓っていました。 それだけが、私のエネルギー源だったように思います。 その頃から「自分が自分から抜け出て、肩の辺りで自分本体を見ている」ような状態、いわゆる「離人」が始まっていました。 離人症は本当に不気味で不安になる症状です。 しかし、当時位小学生だった私には相談ができる大人が誰も居ませんでした。 誰にも不安を打ち明けられないまま、中学三年の頃に不登校が始まります。 …今思えば、家族がバラバラになってしまわぬように繋ぎ止める役割をしていた私は、相当の我慢と努力をして、疲れてしまったのだと感じます。 普通高校に進学するも、目標を見つけられません。 医療に携わりたいという気持ちもあったのですが、働きながら看護学校に行くような選択肢は選べません。 そこまでの覚悟や自立心は、私にはなかったのです。 結局、高校を中退して働き始めました。 しかし高校を中退して働き始めると、今度は普通に学生時代を送るみんなが羨ましくなります。 結局、もう一度受験をさせてもらい別の高校に入学し直しました。 それなりに勉強し、恋愛や部活に懸命でした。 初恋…この頃に先輩とお付き合いしたり、人を好きになることの喜びと、お付き合いをすることの難しさを学びました。 順調に青春を過ごすはずだったのです。 ある日、朝が怖くなりました。 また一日、頑張らなければならない 本当はもう、クタクタなんだよ もう何もかも嫌なんだ。 やっぱり、不登校が始まりました。 もうひとりで頑張るのは、限界だったのです。 二度目の高校中退。 当時、自分では「怠けているだけなんだ」と思い込んでいました。 しかしメンタルクリニックにだけはに行こうと決めていました。 誰かに頼らなければ。 誰か助けて。 しかし通ったクリニックでもあまり良い主治医には巡り合えません。 少なくとも当時の私はそう思っていました。 私を分かってくれる大人は、やっぱりいない… 何だかもう、半分は意地ですね。 その反発心が災いしたのか、「境界性人格障害」という診断が下りました。 そして診断名のお陰で、医師からは敬遠され、私はますます孤立して行くことになります。 ある時、母が戻って来ることになりました。 その頃の私はもう、 「お母さんなんか大嫌い!」 「全部、お父さんとお母さんのせいよ!」 「私は生んでくれなんて頼んでないから!」 そんなふうに自暴自棄になりながら、リストカットを繰り返しました。 包丁で腕を叩き切る私に母は 「お母さんもつらかったの!お願い、お母さんを許して…」 と、泣き叫び私に縋りました。 しかし、私は母を許せなかったのです。 「お母さん、大好きなのに、なんで私をひとりにしたの?」 そう言葉にして伝えられていたら、私は今も歩けていたことでしょう。 飛び降りる直前の心の動き 一人暮らしの家から実家に泊まりに行った時のことです。 何もかもに行き詰まっていました。 仕事も、恋愛も、人生も。 当時、父の最期を看取った直後で、心に穴が開いていました。 今まで「どうしようもない父と、その家族の為に」私は生きていたのです。 それなのに、父が死んでしまった。 私は医療で父を助ける道に進めなかった。 もう、生きる意味なんかないし、生きていても苦しいだけ。 そう感じていました。 もう楽になりたい… 「お父さんに会いたい、お父さんと一緒に笑って暮らしたい」 お父さんが迎えに来てくれないかな、と思い始めました。 幼い頃から「死ぬなら何処で死のうか」と、死ぬ為の場所を探していました。 そして「その場所」は既に決まっていました。 その日、お付き合いしていた男性から電話があり、話していると、何だから下らないわがままを言われたのです。 口論になり、私は呆れて電話を切りました。 「なんで私ばかりが分かってあげなきゃならないのよ。 なんで私に甘えてくるのよ。 私にばかり。 私だってつらいよ。 みんな、私にばかり。 」 ーぷつんー 張りつめた何かが切れる音って、本当にするのですね。 あの日、私が飛び降りた日、私には確かに聴こえました。 もう、終わりにしよう。 そう決めて、携帯電話を実家に置き、私は「あの場所」に向かい歩いて行きました。 自分の足元を見つめ 「サンダル、赤だったなぁ…」 そんなことを思いました。 橋から落ちる時、私の横に愛猫の姿が見えました。 置いて行くの? そう言われているようで、少しだけためらいました。 「ごめんね」 愛猫を、自分の人生を、家族を振り切って落下していくうちに、意識は無くなっていきました。 飛び降りたあと、現在の簡単な説明 救命救急に運び込まれた時、救急車の中で私は連絡先を聞かれたそうです。 そして答えたのは、私が生まれ育った家の電話番号だったそうです。 その番号は叔母が使っており、叔母から母へ連絡があったらしいのですが、その時、母は何かを感じて私を探し回っていました。 管轄の警察署から、刑事さんが自転車で母のもとへ走ってくださって 「お母さん、落ち着いて聴いてね。 娘さんは飛び降りてしまって、今は病院だからね。 」 そう言われた母は、どんな絶望を感じたのだろう。 母が病院へ駆けつけても、私は肺に血が溜まってしまい、血液を抜く処置や気道の確保の処置中です。 救命の医師から告げられた言葉 「娘さんは歩くことは、もう出来ません。 ですが、命だけは助けることが出来ました。 」 それも母には意味が理解できなかったそうです。 そう、命だけは助かりました。 肺の後ろにある背骨を折り、私はその日から今までとは違った生活を送ることになりました。 最後に 今では進行性の麻痺も発症していますが、幸い、こうしてスマホに文章を書けています。 話をすることも、今は出来ます。 ただ、脊髄の部分が肺を圧迫するようになれば、自分だけで呼吸することは出来なくなります。 徐々に悪くはなっていきます。 私が最初に「メンヘラ. jp」に読者投稿をしたのは 「私だから書ける何かがあるのではないか」 そう、感じたからです。 「死にたい」という気持ち、「消えたい」という気持ちは苦しく真っ暗闇でも、読者の数だけ打開策はあるはずだと、私は思うのです。 私のようにならなくても、解決できるはずだと私は信じています。 私は「死にたい誰か」の役に立ちたかった。 いや、そんなに大層なことは出来なくても、 何ができるのか模索したかったのです。 多分、人は、誰かに頼り、誰かを支えて生きていく そうして生きるんじゃないかと思うのです。 私だからできる何かがあるのなら、私はあなたの力になりたい そう感じながら、今日も生きています。 少しだけでも、笑っている時間を忘れないでください。 死にたくて苦しいあなたは、今、生きているのです。 生きていれば、可能性はあるのです。 少しでも、皆様の日々が笑顔でありますように。 【執筆者】 白檀 さん 【プロフィール】 脊髄損傷から進行性の麻痺を発症。 いつかはスマホも使えなくなる可能性があるが、生きる人。 一応、主婦。

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【匿名掲示板】簡単、楽、確実に死ねる方法はありますか?

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ちょうど1年前、わたしは自宅の12階マンションの屋上から飛び降り自殺をした。 今でも「なぜ自殺をしたのか?」とよく聞かれるけれど、うまく説明出来ないでいる。 ただ、わたしの中の自殺への明確な理由はそのとき存在していた。 現実はとても冷酷で、真の愛とか運命に対する希望もなく、そもそも何で生きているのか分からなかったし、いつ死んでもいいと思っていた。 出来れば、あまり辛い想いをしないうちに、死んでおきたいと10代の頃から思っていた。 「わたしの死は、自殺だ」そう確信していた。 世の中の不純さを神経質に感じ過ぎて、生きているだけで辛く、そして、この気持ちを共感してもらえないことが、とても孤独だった・・。 そして、去年の今頃、とても幸せで、とても辛くて、希望を失って我慢する意味を失って、こんな世の中に適応して不純になるのなら、純粋なまま人生を終えたいと思った。 ある日の朝方、わたしは安定剤をワンシート飲んで意識がフワフワになって、イヤフォンをして好きな音楽を聴きながら、ひとり薄暗い屋上への階段を登り、天気のいい新宿の景色をゆっくり眺め。 屋上から、助走を付けてダイブした。 (飛び降りた自宅のマンション) 今でも、死のうとしたことが間違っていたとは思えない(わたしの自殺によって辛い想いをさせてしまった人には申し訳ない)。 あのとき、わたしには「死ぬ」しか選択肢がなかった。 けれど、結果は選択に反して、車のボンネットの上に落ちて全身骨折という、失敗に終わった。 死ぬことすら叶えられず、ベッドの上で一瞬一瞬の猛烈な痛みを噛み締めながら、わたしはすべてを諦めて、逆らうことを辞めて、痛みから逃れるためにただ自然に身を任せた。 (腕と背骨は複雑骨折してチタンが埋め込まれた) 自然に身を任せることは、この鬱陶しい世界から脱却する、きっかけになった。 死ぬことすら出来ないのならば、耐えるしかないと悟り、痛みから逃れようとするから痛いのだと思い、痛みに立ち向かって受け入れるようになったとき、楽になった。 そして、人生も同じだと気付いた。 それから、わたしの中の何かが変わった。 今まで存在すら知らなかった、知っていた世界の、反対側の世界に気付いた瞬間だった。 1から10だと思っていた世界が、-10から10までの世界だったのかと知ったような感覚だった。 気付いてから、この世界の法則が前よりも解るようになった。 この世の自然原理に身を任せて、正しい考え方と行動を示せば、自然とすべての物事はうまくいくのだと確信した。 もしくは、私から見た世界への視点では、うまくいくのだと分かった。 運命や奇跡は、信じる者のみに与えられる視点だった。 ならば、真の愛も存在するし、純粋であり続けることも可能なのだ。 そして、視点は感じさせるだけでなく、実現さえもさせてしまうのだ。 この冷酷な現実は理路整然とし過ぎているからこそ、のような模様や結晶が生じる。 わたしが、12階から飛び降りて助かってしまったのも、意味があるのかもしれないと真剣に考えるようになった。 子供の頃の夏休みの毎日を過ごしているみたいだ、こんな気分数十年ぶりで驚いている。 やっと、なかなか越えられなかった大きな壁を乗り越えた。 何度でも越えてやる、どんな問題も諦めない、わたしは越えられると信じ切っているから。 信じる者のみに、運命は与えられる。

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