朝鮮 王朝。 【韓國世界遺產之二

朝鮮王朝の「悲劇の五大王妃」とは誰か

朝鮮 王朝

1592年というと、朝鮮王朝が創設されてから200周年になる。 この記念すべき年に朝鮮王朝は存亡の危機を迎えた。 豊臣軍の朝鮮出兵があったからだ。 そのときの王は14代王の宣祖(ソンジョ)だった。 李舜臣の活躍 実は、朝鮮出兵がある2年前に、朝鮮王朝側は、日本の動きが不穏だということで情勢を探らせるために使節を京都に送っている。 使節は豊臣秀吉とも会った。 その使節の正使は黄允吉(ファン・ユンギル)で、副使が金誠一(キム・ソンイル)である。 帰ってきた2人はまるで正反対のことを報告する。 黄允吉は「いまにも日本が攻めてきそうです。 早く国防に力を入れたほうがいいでしょう」と言い、金誠一は「大丈夫です。 日本は攻めてきません」と断言した。 正使のほうが身分が上だから、正使の報告が通りそうなものだが、当時の朝鮮王朝は派閥闘争が激しくて、実は副使側の派閥のほうが強かったので、結局は金誠一の意見が採用された。 日本が攻めてこないと信じて国防をおろそかにしたときに、豊臣軍が攻めてきた。 戦国時代を経て日本は兵が鍛えられているが、朝鮮王朝は太平が200年間も続いて平和ボケしていた。 これでは、豊臣軍の攻撃にひとたまりもない。 朝鮮王朝は連戦連敗で、宣祖は都を捨てて北に逃げた。 ただし、豊臣軍の優位は長続きしなかった。 明が救援軍を送ってきたり、各地に義勇軍ができて豊臣軍が苦しめられた。 その中でも、戦局の最大の転換をもたらしたのが、武将の李舜臣(イ・スンシン)の存在だ。 (ページ2に続く.

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朝鮮王朝ドラマ年表 李氏朝鮮時代の韓国時代劇を歴史順に並べてみた

朝鮮 王朝

生没年/1552年~1608年 在位/1567年~1608年 13代王・明宗(ミョンジョン)の後を継いだのは、11代王・中宗(チュンジョン)の孫だった。 彼は幼少の頃から賢く礼節を尊んでいたことで評判が良かった。 多くの候補者の中から選ばれ、1567年に14代王・宣祖(ソンジョ)となった。 都を捨てて逃げた王 宣祖は即位当初から学問に励み、儒教の教えにも精通し、大物儒学者の李滉(イ・ファン)と李珥(イ・イ)を高く評価した。 李滉が亡くなったときは、3日も政務を休み哀悼するほどだった。 さらに、士禍(サファ)によって身分を剥奪された人物たちの名誉を回復することにも力を注いだ。 結果として、宣祖の治世では文臣たちの力が強まった。 しかし、平穏な時間は長く続かなかった。 文臣たちの間にも派閥が生まれ、激しく対立するようになったからだ。 宣祖は李珥に争いの仲介を命じたが、事態は一向に収まらず、李珥が亡くなると一層激しく対立するようになった。 内政が不安定になることで、辺境の守備も疎かになった。 混乱する情勢の中、1592年には豊臣軍の攻撃で戦乱(壬辰倭乱〔イムジンウェラン〕)まで起こってしまった。 宣祖はこの戦いでいち早く、首都である漢陽(ハニャン)を捨てて逃げ出してしまい、庶民の不信を買ってしまう。 1598年、約7年に及んだ壬辰倭乱は終結するが、その爪痕は長く朝鮮王朝を苦しめる。 宣祖は復興策として、壬辰倭乱で成果をあげた者には身分に関係なく褒美を与えた。 また、賤民(チョンミン/最下層の身分)から平民になれる機会が増えたことあり、朝鮮王朝の身分制度は宣祖の時代に大きく変わっていった。

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戦乱時に逃げ出した14代王・宣祖(ソンジョ)/朝鮮王朝国王列伝14

朝鮮 王朝

生没年/1552年~1608年 在位/1567年~1608年 13代王・明宗(ミョンジョン)の後を継いだのは、11代王・中宗(チュンジョン)の孫だった。 彼は幼少の頃から賢く礼節を尊んでいたことで評判が良かった。 多くの候補者の中から選ばれ、1567年に14代王・宣祖(ソンジョ)となった。 都を捨てて逃げた王 宣祖は即位当初から学問に励み、儒教の教えにも精通し、大物儒学者の李滉(イ・ファン)と李珥(イ・イ)を高く評価した。 李滉が亡くなったときは、3日も政務を休み哀悼するほどだった。 さらに、士禍(サファ)によって身分を剥奪された人物たちの名誉を回復することにも力を注いだ。 結果として、宣祖の治世では文臣たちの力が強まった。 しかし、平穏な時間は長く続かなかった。 文臣たちの間にも派閥が生まれ、激しく対立するようになったからだ。 宣祖は李珥に争いの仲介を命じたが、事態は一向に収まらず、李珥が亡くなると一層激しく対立するようになった。 内政が不安定になることで、辺境の守備も疎かになった。 混乱する情勢の中、1592年には豊臣軍の攻撃で戦乱(壬辰倭乱〔イムジンウェラン〕)まで起こってしまった。 宣祖はこの戦いでいち早く、首都である漢陽(ハニャン)を捨てて逃げ出してしまい、庶民の不信を買ってしまう。 1598年、約7年に及んだ壬辰倭乱は終結するが、その爪痕は長く朝鮮王朝を苦しめる。 宣祖は復興策として、壬辰倭乱で成果をあげた者には身分に関係なく褒美を与えた。 また、賤民(チョンミン/最下層の身分)から平民になれる機会が増えたことあり、朝鮮王朝の身分制度は宣祖の時代に大きく変わっていった。

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